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長田渚左『桜色の魂――チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』(集英社)

 特別な友情

「どうしてもこの人を書きたい」という著者の情熱と愛情が惜しみなく注ぎ込まれた渾身の作品です。強くその人に心惹かれ、初めて取材したのが1990年。もう四半世紀も前になります。

 1964年の東京オリンピック。「五輪の名花」と称された女子体操のベラ・チャスラフスカは、優美で、愛らしく、気品に溢れ、しかもダイナミックな演技で日本中を魅了しました。個人総合、平均台、跳馬で3つの金メダル。続く1968年のメキシコ大会でも個人総合連覇を果たし、金メダル4つを獲得します。

 しかし、その頃祖国チェコスロバキア(当時)で進展していた民主化運動(いわゆる「プラハの春」)が旧ソ連などの軍事介入で鎮圧されると、賛同者の一人であった彼女は、政治的な迫害にさらされます。スポーツ界からは追放され、一切の仕事を与えられず、生活権は剥奪されます。彼女は名を借り変装して、掃除婦の仕事をした時期もあるといいます。それでも、改革路線を支持した「二千語宣言」への署名の非撤回を貫き、信念を曲げることはありませんでした。厳冬の時代は、20年の長きにわたります。

 事態を変えたのは、1989年の「ビロード革命」でした。共産党政権が崩壊したその日、彼女はプラハ中心部のバーツラフ広場に面したバルコニーに立ち、群衆の嵐のような拍手と歓声に包まれます。著者が初めてチャスラフスカを取材するのは、こうして表舞台に返り咲いた彼女がバーツラフ・ハベル大統領の補佐官に就任し、久々に来日した時のことです。そして92年の来日の際にも、また取材のチャンスに恵まれました。

 ところがその1年後、再び運命が暗転します。18歳の長男が、離婚した夫を死に至らしめるという不幸な事件が起こります。以後、彼女の消息は次第に途絶え、著者は何度も接触を試みますが、聞こえてくるのは「精神を深く病み、回復の見込みはない。もう彼女とのコンタクトは終生無理である」といった絶望的な情報ばかり。書くことは「到底不可能だ」と諦めざるを得ませんでした。

 2004年に刊行された後藤正治さんの『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』(現在、文春文庫)では、チャスラフスカと会うために、1999年、2003年と2回プラハを訪れたものの、ついに目的を果たせなかったことが述べられています。「撃たれて傷ついた狐は生まれた森に帰るのです」という言葉が、彼女から届いたわずかなメッセージでした。
 
〈スポーツ界のスーパーヒーロー、ヒロインたちは少なくないが、二十世紀における世界的な、という枠でくくればごくわずかな数に絞られるだろう。(略)その一人がベラ・チャスラフスカであった。彼女は東欧社会主義圏の小国に生まれ、育った。選手生活の全盛期、時代の動乱に遭遇し、その渦に巻き込まれつつ、背筋を伸ばして生き続けた。その後、長い困難な歳月を経て復活するも、再び大きな試練と出会い、安寧のときはついになかった〉
(同書「あとがき」)
 
 結局、面会は叶わぬまま、「ベラの回復を祈る」という一文をもって、後藤さんの作品は締めくくられます。その彼女が2009年11月、毎年行われているチェコの五輪選手たちの集いに、突然姿を現わします。14年ぶりのことでした。旧友たちは驚き、彼女を抱きしめ、涙を流します。「ベラはついに自分で閉めた棺のふたを開けて出てきた」と大騒ぎになりました。

 翌2010年11月、日本とチェコの友好促進に貢献した点が高く評価され、秋の叙勲で日本から旭日中綬章が授与されます。プラハでの記念講演会に臨んだ彼女は90分のスピーチを行い、会場を沸かせます。さらには2011年3月11日の東日本大震災の発生を知ると、翌12日に日本国民に向けて激励のメッセージを送ります。「日本国民の皆様と同じく、私たちもこれを試練の時ととらえ、災害が一刻も早く収まり、そして被害に遭われた方々が、一刻も早く普段の生活に戻れますように、心よりお祈り申し上げます」。

「再帰不能」とさえ言われた深い闇の世界から、一体どうやって彼女が“奇跡の復活”を遂げたのか。「さぼっていた守護天使が戻ってきたのよ」と彼女は語りますが、一体何が彼女に起きたのか。何を手がかりにして、再び生気を取り戻すことができたのか。
 

 20数年もの間、書きたいと念じながら心の奥底に封印してきたテーマは、こうしていつしか熟成の時を迎え、結果として最良のタイミングをもたらします。2011年、来日したチャスラフスカと念願の再会を果たし、その後何度かの取材を重ねた著者は、2014年3月、チェコで4日間、12時間に及ぶ総仕上げのインタビューを行います。波乱に満ちた人生をともに振り返り、その類まれな知性、感受性、そして人柄の魅力をたっぷりと吸収します。「日本人の生き方が、人生に大きな力を与えてくれた」という彼女の真率な言葉の裏に、チャスラフスカ自身ですら十分に意識していなかった深い意味――魂の奥底に眠っていたひとつの物語を読み取ります。それが副題の意味するところです。

 チャスラフスカという稀有な女性の内面に、東京五輪から50年後のいまなおしっかりと生き続けている日本、日本人像とはどのようなものか。それは彼女に何をもたらし、どのような「大きな力」となり得たのか――。

 本書にはチャスラフスカに直接、間接に関わったさまざまな日本人が登場します。彼女と出会った人々が、その時々に示した態度や誠意が、彼女の魂の中にどのように根を下ろしていったのか。その物語の誕生自体が夢のようでもあり、奇跡のようにも感じられてなりません。

 さて、これ以上の詳細は書き出せばきりがありません。あとは直接本を読んでいただいたほうがよさそうです。ただその前に、最近読んで面白かった「逆立ち人生 池田敬子」という新聞記事を紹介しておきたいと思います(読売新聞「時代の証言者」2014年10月15日~11月22日連載、担当は結城和香子編集委員)。
 

 池田敬子、と聞いてもいまの若い人たちにはピンとこない名前かもしれません。日本女子体操界の先駆者であり、通算10回の全日本チャンピオンという“不世出の名選手”です。東京五輪では女子チームのキャプテンを務め、団体で「逆転の銅メダル」を獲得する原動力となりました。チャスラフスカとの親交も深く、国内で軟禁状態が続く彼女の身を憂慮して、1970年代半ばにチャスラフスカをチェコスロバキアに訪ねます。そして日本政府、チェコスロバキア政府を動かして、1977年8月、「国際女子ジュニア体操東京大会」に、彼女をゲストとして招きます。その池田さんを本書は次のように紹介しています。
 
〈日体大3年の、19歳で初出場した1954年のローマ世界選手権で、種目別の平均台で金メダルを獲得。日本女子が初めて出場した大会でのいきなりの快挙だった。世界選手権で優勝した女子選手は今も池田1人だけである。その19歳の世界選手権から、32歳で迎える1966年のドルトムントでの世界選手権まで、足掛け14年も世界のトップで活躍した。この最後の世界大会となった世界選手権でも個人総合で銅メダルを獲得している。
 五輪では独身時代の1956年にメルボルン大会に初出場。新婚だった1960年にローマ大会に出場し、そして1964年東京大会は男児2人の母親として出場している〉
 
 1966年、最後の世界舞台で銅メダルを獲得した時に、個人総合で優勝したのは24歳のチャスラフスカ、2位が17歳のクチンスカヤ(ソ連)、3位が32歳の池田さんでした。10代、20代、30代が見事に揃った表彰台となりました。

 これだけの名選手であるにもかかわらず、これまで彼女の半生についてはほとんど知りませんでした。今回の連載によって、彼女が子どもの頃から鉄棒が大好きで、小学校時代に足かけ回りの競争で、脳震とうを起こすまで127回も回り続けたとか、誰に教わるでもなく蹴上がり、大車輪などお手のもの。「あれは危ないからやめた方がいい」と先生が言うのもヘイチャラで、平均台に飛び上がったと同時に「だっだっだっ」と駆け出して、皆の肝をつぶしたといった話が、次から次へと飛び出します。

 1933年(昭和8年)に瀬戸内海の小さな島に生まれたお転婆少女が、戦後の恵まれない時代環境の中で、明るく、たくましく、まっすぐに「体操一筋」の人生を突き進んでいく道のりが、面白くないわけがありません。

 中でも感動したことのひとつは、体操選手独特の、国を越えた強い心のつながりでした。初参加した1954年のローマでの世界選手権。規定演技内容の日本語訳がでたらめだったため、試合の前夜、まるで見当はずれの練習をしていた日本チームを見かねて、ハンガリーのベテラン選手が、真夜中にもかかわらずホテルで実演指導してくれたというエピソード。その選手は、2年後のメルボルン五輪で3つの金メダルを獲得しますが、大会後、ハンガリー動乱の祖国を離れて亡命します。

 それから46年後、日本の女子で初めて国際体操殿堂入りすることになった池田さんが、米国での式典に参加します。すると、行方知れずだった彼女がそこにいました。同じ時に殿堂入りが決まっていたのです。「まだ逆立ちをやっている」という彼女に応えて、池田さんもロングドレスをまくり上げて結び、受賞の舞台でいきなり逆立ちを披露します。爆笑とブラボーの大喝采!

 この話を紹介したのは、実はチャスラフスカと日本選手の間にも、特別な信頼感と友情が育まれていたからです。それは男子も女子も同じでした。とりわけ遠藤幸雄選手とは、「テレパシーでお互いに相手が何を考えているかを理解しあった」というほどの、深い心の友でした。
 
 
〈エンドーの考え方、考えていること、それはすべて分かりました。彼がどうしたいのか、何を思い、何を考えて体操をしているのか、本当によく心模様が分かったのです。こんな遠い国に、自分とこんなに似た人が存在していたなんて、そのことが面白くて、不思議でもありました。エンドーも私が考えていることはみんな分かったんだと思います。エンドーは私の体操の先生であると同時に、美の先生でもありました〉
 
 東京五輪の跳馬で金メダルに輝いたチャスラフスカに「山下跳び」の秘訣を教えたのは、遠藤選手だったといいます。1962年のプラハでの世界選手権では、ともに個人総合で2位の成績に終わりました。その時、「2年後の東京五輪では一緒に金メダルを」という約束を心の中で交わしていたとチャスラフスカは語ります。そして、それは現実のものとなりました。
 

 であればこそ、2007年11月、病の床に就いた遠藤選手の消息を聞き、チャスラフスカは遠藤さんのもとに手紙を送ります。「早く病気が治ってほしい」という激励とともに、主治医にメッセージが添えられていました。

「ユキオ・エンドーは私の体操の師であり、大切な友人です。医術、科学の力で何とか助けてください。最大のお力を貸してください。祈っています。/友人 ベラ・チャスラフスカ」

 いったんは回復した遠藤さんですが、2008年7月に再び体調を崩して再入院し、2009年3月25日、ついに帰らぬ人となりました。しかし、この日付けに著者の目は釘付けとなります。チャスラフスカが「長い間、外部との接触を断ち、かたくなに自分の殻にこもっていた」その最後の時期に重なるからです。

 がんと闘う遠藤氏にチャスラフスカはメールを送っています。「私はあなたのことを大変に敬愛しております。あなたの、あの強い決断力、強い意志力が今こそ、あなたと共にありますように。/私は毎日、日々の祈りにあなたのことを思い、私の気力と意志が、少しでもあなたに届いて、あなたの力となりますよう、心からお祈りいたします」
 
〈自らの症状は上向いてはいたが、まだ外部との接触は避けていた時期である。チャスラフスカは毎日、遠藤の回復を祈り続けた。自分の気力と意志を心の底に湧き上がらせるようにして、それが遠藤の心に届くように念じた〉
 
 時は過ぎて、2012年3月、東日本大震災で被災した東北の中学生たちをチャスラフスカはチェコに招きます。プラハを訪れた26人の生徒たちを前に、彼女は何度も同じ名前を口にします。
 

「ユキオ・エンドーは日本人の、あなたたちの先輩ですよ。名前も聞いたことがないですか。ユキオ・エンドーを知りませんか。素晴らしい体操選手、素晴らしい日本人でした」

 何かを必死に訴えるかのように、繰り返し遠藤幸雄の名前を口にする、チャスラフスカの声を聞きながら、「突然、私は頭の中に白い閃光が走ったのを確かに感じた」と著者はこの作品を語り起こします。

 チャスラフスカはなぜ“奇跡の復活”を遂げることができたのか。「その日、私はベラ・チャスラフスカの復活の謎を解く鍵を、ちらっと見たような気がした」と。
 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

 
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