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山本朋史『ボケてたまるか! 62歳記者認知症早期治療実体験ルポ』(朝日新聞出版)

 汗と苦行と笑いの日々

 その瞬間、目を疑いました。「ボケてたまるか!」――バリバリの記者として知っていた人物が、いきなり「認知症」闘病記の連載を「週刊朝日」で始めたのです。同誌の看板企画、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」をながらく担当し、リクルート事件、KSD事件、オウム事件などの取材で活躍していた同世代の雑誌記者――。誌面を見て驚いたのは、もちろん私に限ったことではありません。

 連載開始後、「週刊朝日」編集部に電話がかかってきます。受けた人が、「ボケのトモさんに電話です」と取り次ぎます。昔の友人からでした。
 
〈「おまえ、本当に認知症なのか」
 電話に出るといきなり聞かれた。
「いま筑波大学附属病院に認知力アップのデイケアに毎週通っているんだ。連載で詳しく書くから、記事を読んでくれよ」
 ぼくは、少し傷つく思いで憤慨して答えた。連載のタイトルを「ボケてたまるか!」とつけたものの、多くの友人は、未然形ではなくあいつはもうボケてしまったと過去形で受け止めているのかもしれない〉
 
 その通り。「軽度認知障害」とあっても、どの程度のものなのか、すぐには見当がつきません。いったい彼の身に何が起きたのか。最初に戸惑い、そして心配した点です。
 
〈ぼくが脳の異常を感じたのは、61歳を過ぎたころからだった。記憶力には多少の自信があった。(略)それがあるときから、少し前に聞いた人の名前が出てこなくなった。テレビに出ている俳優の名前が出てこないことなどしょっちゅうである。大好きな競馬の競走馬の名前も忘れて、思い出すまでに20分以上かかることもあった。これも最初は加齢のせいにしてきた。誰でも60歳を過ぎたらこれぐらいは普通だろうと思い込もうとした〉
 
 
 ところが、ある日、取材日程をダブルブッキングしてしまいます。これまでの記者人生ではあり得なかったようなミス。不安が一気に増大します。夜も眠れなくなります。医療関係者に相談すると、東京医科歯科大学の精神科にある「もの忘れ外来」を勧められます。すぐに連絡を取って飛び込みます。
 
〈筑波大学の朝田隆医師が対応してくれた。朝田医師の指示に従って認知機能検査を受けた。MRIとCTの精密検査も提携病院で実施してもらった結果、症状はまだ軽いが認知障害の疑いがあると言われた。まだ認知症までは進んでいない。しかし、このまま放っておくと数年後には症状が進んで認知症になる可能性がある。恐ろしかった。危機一髪だった。今からでも何とかなるのだろうか。朝田医師には認知症薬もあると説明されたが、むしろデイケアでの認知力アップトレーニングを勧められた。朝田医師が推進する認知症早期治療である〉
 
 症状を見る限り、やや拍子抜けしなくもありません。心配のし過ぎでは、という気がします。この程度の話なら周りにゴロゴロしています。かく言う私にしても、名前が出てこない、などごく当たり前。30年近く前、当時御年90歳を越えた野上弥生子先生が、「なかなか出てこない固有名詞を、ゆっくり時間をかけて思い出すのが楽しいの」とおっしゃっていたのを、しばしば思い出す日常です。
 

 しかし、著者は違いました。放置すれば「自分が壊れていくという恐怖にとりつかれ」、「効果があることは何でも試したい」と思う小心者、憶病者だと、自ら認めます。小さな予兆から何か異変を察知する能力――これも優れたジャーナリストの資質かもしれません。

 こうして週に一度、筑波大学附属病院に早期治療に通うことになりました。朝6時過ぎに南千住にある自宅を出て、3時間近くかけて病院へ行きます。午前9時から、昼を挟んで午後3時半までという長丁場。仕事との両立を図るため、編集部のデスクに相談したところ、「デイケアの現場を実体験ルポにしてはどうか」と提案されます。「同じ悩みを持っている人の参考になると思います。診療費用や病院で待つ時間なども正確に書いてください。トモさん自身の診療ですから、費用は自費でお願いします」と。

 具体的な治療内容は、さてどのようなものだったのでしょう。2014年2月3日、初日からメニューは多彩です。まず午前中は、「アタマ倶楽部」という頭脳力アップのゲームです。敏捷性や集中力を養う目的です。デイケアの常連さんたち約30人が参加して、正解の早押しを競います。「目立ったらダメだ、1位にはなるまい、なんて気取っていたのは最初だけ。すぐに負けるものかと熱くなって真剣に早押しした。それでもぼくより高齢の方々に惨敗。口惜しいというよりマサカコンナという気分。自分の頭の回転の遅さに戸惑った」。

 続いて思い出を語り合う「回想ゲーム」、どのくらい大きな声が出せるかを競い合う……。「まるで幼稚園ね。これが認知力アップに本当に効果があるのかね」と冷ややかな人もいる一方で、大半の参加者は真剣そのものです。治したいという空気が充満しています。「あだやおろそかなルポはできない」と、著者も改めて覚悟を迫られます。

 午後は柔軟体操、ステップダンス、体力テストと続き、終わった瞬間には、とにかくここへ半年以上は通おう、と決めました。スタッフや仲間との会話も気分が良く、このデイケアに参加したい希望者が順番待ちだということにも納得がいきました。
 

 その後、本格的に始まったトレーニングには、ハードな筋力トレーニング、絵を描く美術療法、合奏による音楽療法、社交ダンス、料理、「シナプソロジー」という体を動かしながら脳を活性化する運動プログラム、動体視力を鍛えて認知力を上げようというスロットマシーンまでが登場します。

 著者がもっとも自分に合っていると感じたのは、補助いすだけを使った筋力トレーニングです。筋肉への負荷は自分自身で加え、ダンベルなど重い道具は使いません。鍛える部分に神経を集中させ、動きはゆっくりと、ひとつの運動は1分かけて行います。1セット25分ほど。10分もすると汗が噴き出します。予想以上に厳しいトレーニングですが、MCI(軽度認知障害)の治療にはいちばん効果的とされています。
 

「頭がスッキリする。快い疲労もある。最近はもの忘れも少なくなった気もします」と、3ヵ月後に著者は手応えを語ります。持病のアレルギーや中性脂肪、悪玉コレステロールの数値も数段改善されていて、体重もいつの間にか6キロ減っていました。それまでの運動不足も解消され、体調は明らかに上向きます。

 とはいえ、どのトレーニングひとつをとっても難行苦行の連続で、まさに「笑いと汗と格闘の日々」、「三歩進んで二歩下がる」(いずれも章題)の通りです。それを経験豊かなスタッフと、苦楽をともにする仲間たちの存在が支えます。付き添ってくる家族(近隣の人たちがやはり多い)にとっても、お互いの悩みや情報を交換する、ここが貴重なコミュニケーションの場となります。

 ただ、早期治療に卒業はあるのか、となると、参加者は共通の不安を抱えています。「自分ではある程度治ったと思っても、また自宅で過ごすだけの生活に戻ったら、元の木阿弥になるのではないか」という心配です。加齢もその間に進みます。
 
 
〈朝田医師は、認知症はストレスや精神的な心の病気が引き金になるケースが多いという。外科の病気などとは違って、患部を手術で取り除いて治るものではない。特効薬もない。個々の患者さんと相談して、治療を工夫し助言する方法しか現在はないという〉
 
 認知症を解消する根本的治療法が見つかっていない現状で、デイケアは実にさまざまな専門家(医療以外のジャンルを含めて)の協力を得ながら、多様なプログラムに取り組んでいます。めざすところは、各種の刺激を与えることで脳の活性化を促し、認知症の症状を抑え、進行を遅らせる、という対症療法です。個人差はあるにせよ、トレーニング前と後の脳波を比較すると、ほとんどの人がトレーニング後に活性化しています。そして、継続が何より決め手なので、これを生活習慣にすることが肝要です。著者自身、今後も治療を続けなければ、と自らに言い聞かせます。

 厚生労働省は今年1月7日、10年後の2025年には認知症の高齢者が約700万人(最大で730万人)になるという推計値を示しました。10年経つと、65歳以上の5人に1人が認知症という社会を私たちは生きることになるわけです。27日には政府が、省庁を超えて認知症対策に取り組む初の国家戦略(新オレンジプラン)を明らかにしました。

 本人やその家族の視点を重視して、患者にどのようなサポートが必要か、実態調査の結果を対策に反映させると謳っています。本書を読んでいても、当事者の悩みや真情がまだまだ社会的に理解されていないと感じます。「徘徊」という言葉ひとつを取り上げても、誤解と偏見が付きまとっているのが現状です。
 
〈徘徊という言葉は、認知症予備軍のぼくとしては、あまり好きではない。使うことにもためらいがある〉
 
 自分が皇居の中で道に迷った時の恐怖感を知る著者は、「認知症患者が歩き回っているときは不安がいっぱいに違いない。どこか自分の知っている場所を目指して歩き続けているのだろう。途中で自分がどこにいるのかもわからなくなっているのだ」と想像し、筋トレの先生から聞いた言葉を思い起こします。
 

「認知症の患者さんは、脳と体の感覚神経がつながっていないのでスクワットを100回でも200回でもやっている。遠くまで歩いて下半身は疲れきっているのに、それが脳まで届かずに延々と歩いてしまうのです。普通なら痛くて途中で座り込むのに驚くほど遠くまで行ってしまうのです」

 さて、この連載がきっかけで、著者は昨年11月に東京で開かれた「認知症サミット日本後継イベント」(2013年にロンドンで開催されたG8認知症サミットを受けた各国での催し)初日のオープニングスピーチを依頼されます。外国から多数の関係者が集まる国際会議です。朝田医師に相談すると、「こんな機会はめったにありません。スピーチされたらいかがですか。脳も活性化しますよ」という助言。
 

 意を決して大役を引き受けますが、「トモさんは認知症患者当事者として話すのだから、あまり流暢だと変に思われるよ。期待されているのは、何度か言葉を失ってボーッとすること。つまり、普段どおりでいいのさ」など、周囲は面白半分で見守ります。本番では、狙ったジョークは空振りでしたが、淡々とトレーニングの日常を語るうち、期せずして会場から笑いが起こります。
 
〈作ったジョークより、ぼく自身の飾らない失敗談のほうが参加者の心に届くのだと思った〉
 
 本書もまさにその流儀です。飾らない自分をユーモラスに語ることで、デイケアの稀有な同時進行ドキュメントが生まれています。
 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
写真提供・朝日新聞出版

 
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