Kangaeruhito HTML Mail Magazine 623
 
 「ナイトホークス」を見ながら
 
 昨年の11月末に刊行された「NACT Review 国立新美術館研究紀要」第1号を手に取りました。海外の事情はよく知りませんが、日本の美術館がこういう本格的な学術誌を発行するのはきわめて珍しいのではないでしょうか。少なくとも、私は初めて目にしました。
 


 美術館の展覧会カタログには、よく学芸員による作家の紹介や作品解説が載っています。たいていは読み始めて、途中で止めてしまいます。どうもアマチュアの鑑賞者とは関心の所在がズレているのか、詳しくて細かすぎる、堅苦しいことなどが理由です。ついでに言うなら、最近の展覧会カタログは少し立派すぎるような気がします。いかめしくて、値段も高すぎます。もっと気軽に持ち帰ることのできる、平易で面白いガイドを求めているのですが……。

 さて、この「研究紀要」には美術館の研究員、大学院生(文化人類学)、美術館行政関係者らによる論文が7本並んでいます。テーマはまちまちですが、どれも力作ぞろいの様子です。しかも査読つきの学術論文――つまり大学の紀要などと同じく、研究成果として業績評価の対象になる体裁です。となれば、展覧会カタログはあくまで一般向けに面白く、専門的な美術研究はこういう雑誌で思う存分アカデミックに、という“棲み分け”ができないものかと考えます。

 それにしても、なぜ、いま、このような刊行物を世に問うのか。そう思って「発刊の辞」を読みました。館長の意図するところが述べられています。多少、斟酌しながら要約すると、こんな感じです。

 国立新美術館は2007年1月に開館して、2014年で7年目を迎える。過去の実績を見ると、年間200万人を超える入館者数があり、基盤はようやく整ってきた。これからはいよいよ「国立新美術館の個性を発揮して内外にその存在を知らしめる発展と飛躍の時期に入った」と。

 ついては、収蔵コレクションを持たない美術館(*1)だけに、各種の展覧会の企画・運営にいっそう磨きをかけるのはもちろんのこと、学術研究の充実、21世紀の美術館にふさわしい幅広い社会貢献や教育普及への取り組み、さらには美術館をめぐる近年の国際環境の急激な変化や新たな動向に対する果敢なチャレンジを試みたい――。

 そういう意味で、この研究紀要は狭い意味での美術研究にとどまらず、新しい美術館のあり方を考え、文化政策を論じたり、美術周辺の文化論を視野に入れた学際的なフォーラムに育てていきたい、という意欲が窺えます。誌面的には、美術を中心に据えた総合芸術文化誌といったイメージでしょうか。

 創刊号を見る限りでも、各界の執筆者から34本のエッセイを集めているところなどは、そうした編集の方向性を示すものでしょう。その伝で言えば、この号で何より面白く読んだのは、他ならぬ青木保館長自らが筆をとった「エドワード・ホッパーの『ナイトホークス』」と題する評論でした。たまたま私自身が好きな画家をテーマにしていることもあって、一気呵成に読みました。

 文化人類学が専門である著者らしく、ホッパーと自分との間には大きな文化的差異が横たわっているけれども、その作品から受けた得がたいものを何とか自分の言葉で表現したい、この試みは「それに尽きる」――と執筆の動機を語っています。美術の専門家ではない一介の鑑賞者に過ぎないが、それでも自分が惹かれている対象について書きたい――その成果は、きわめて興味深い文化論になっています。
 


 
 ホッパーとは、どんな画家か。1882年、ニューヨークの郊外に生まれ、1967年にニューヨークで死去。これまで繰り返し眺めてきた『エドワード・ホッパー アメリカの肖像』(ヴィーラント・シュミート、岩波アート・ライブラリー)の帯には、「不安と孤独に彩られた現代社会を鋭い人間観察によって見事に描ききったアメリカ・リアリズムを代表する画家」という惹句があります。「アメリカ・リアリズム」、「アメリカン・シーン」といった用語はしばしばホッパーについてまわりますが、厳密な定義はよく分かりません。

 ただ、このアーティストは、1920年代、30年代にかけて自分が目にしてきた風景を好んで描きました。カフェテリア、深夜のダイナー、オフィス、郊外の小さな町、小高い丘の上に立つ家、灯台、道路脇のガソリンスタンド、別荘地――。いずれも人気(ひとけ)のない風景か、稀に人間の姿があっても、自分一人の時間を過ごしている主として中産階級の白人たち(子どもは決して登場しません)の寡黙なたたずまいが描かれています。
 
〈それにしても、ホッパーはきわめて特別な意味での「アメリカン・シーン」の画家であった。彼が描いた家はアメリカの家であり、室内もアメリカ的なもの、そしてそこに住む人々もまずはアメリカ人である。休むことなく移動し、休む間もないことに疲れ果て、孤独で、その孤独に静かに絶望しているようなアメリカ人である〉(前掲書)
 
 ホッパーを見ながら最も惹かれるのは、そこに描かれた人間だ、と青木氏もまた述べます。
 
〈ホッパーの作品に登場する人物は、いずれも寡黙で自分というものを説明しない。オフィスやレストランで複数の人物がいる場合にも互いに話し合ったり会話を楽しんだり相手の気を引いたりうなずき合う事もない。……深夜のダイナーでコックかバーテンに見える男を相手に客の中年の男女が注文をするのか世間話をしているのかと見られるような状況であってもよく見ると、互いに相手に向き合ってはいない。
 オフィスで打ち合わせをしているような場面であっても、そこにいる人たちの間には感情の行き来はない。別荘のテラスで日光浴をしているように見える場面でも、こうした場所に付きもののくつろいだ風情は少しも漂わない。椅子にすわる人々はただ前方を見るだけだ〉
 
 
 さて、この評論の焦点である「ナイトホークス」(1942年)という作品は、画家自身が愛読したヘミングウェイの短編小説(*2)――とりわけ「殺し屋(The Killers)」(1927年)の影響がよく指摘されます。この小説が発表された当時、「スクリブナーズ・マガジン」の編集部に直接、ホッパー自身が賞賛の手紙を書き送ったというのは、たしかに興味深い事実です。誠実で、読者の好みにおもねらず、甘ったるい感傷を排し、何ごともうわべだけで満足せず、真実を求めて逸脱することがない、といった賛辞です。

「ヘンリーズ・ランチルームのドアがあいて、二人の男が入ってきた」で始まるこの小説は、外が薄暗くなってきて、窓の外の街灯がともった、夕方5時頃のダイナーが舞台です。入ってきた二人はシカゴから来た殺し屋たちです。来た目的はここに食事に来るスウェーデン人のオーリ・アンダースンを殺すためだといいます。物語はこの二人と店の者との会話だけで展開し、やがて7時前になり、きょうはアンダースンが現われそうもないと見切りをつけ、殺し屋たちは引き上げていきます。その後、心配になった従業員の一人は、アンダースンの下宿を訪ね、「あんたを殺すつもりだ」と二人組のことを彼に告げます。しかし、元ヘビー級のボクサーだったという大男のアンダースンは、服を着たままベッドに横たわり、枕を二つ重ねた上に頭をのせて、こちらを見向こうともしません。そして、「いまさら、どうしようもないのさ」、「もう手の打ちようがない」、「もう、うんざりだよ、あちこち逃げまわるのは」と言います。「どうしようもないんだ、いまとなっては」と。
 
〈「あばよ」オーリ・アンダースンは言った。ニックのほうは見なかった。「よくきてくれたな、ここまで」
 ニックは部屋を出た。ドアを閉めるさい、服を着たままベッドに横たわって壁を向いているオーリ・アンダースンの姿が、もう一度目に入った〉
 
 いずれ殺される、と知りながら、部屋を出る気も失せたその大男の姿が「いつまでも心に残響を響かせる」(青木)という作品です。また他の作品、「清潔で、とても明るいところ(A Clean, Well-Lighted Place)」(1933年)の影響を指摘する説もあります。こちらは殺されるのを静かに待つ男ではなく、スペインのどこかの町の夜更けのカフェで、先週なぜか自殺を図ったという老人が、「清潔で、とても明るい」カフェの一角で、ずっと静かにブランディのグラスを何杯も重ねています。やがて店じまいをしたい店員が「だめ。もうおしまい」と首を振ります。
 
〈老人は立ちあがった。受け皿をゆっくり数えると、革のコイン入れをポケットからとりだして勘定を払い、半ペセタのチップを置いた。
 道路を遠ざかってゆく老人の背中を、ウェイターは眺めた。年老いた一人の男が、足をふらつかせながらも、威厳を保って歩いてゆく〉
 
 岩波アート・ライブラリーの本では、「ナイトホークス」という絵のタイトルに「夜更かしの人々」という訳語をあてています。これには以前から違和感がありました。青木さんも同意見で「深夜の客」というのが妥当なところだろうが、「hawks(鷹)」の感じが出てこないので、とりあえずは「ナイトホークス」としておきたい、と述べています。
 

 
 絵はニューヨークのダウンタウンの一角にある深夜営業のダイナー。ここに立ち寄った一組の男女、一人の男がカウンターに腰かけ、白いコック姿の男がいくぶん腰をかがめ、注文を取っているのか、世間話をしているのか、男女の客のほうを見ながら何か言葉を投げかけているようです。登場人物はこの4人。大都会の深夜を過ごすナイトホークスたちの静かな空間と時間が定着されています。

 絵の構図もいたってシンプルです。グレニッジ・ヴィレッジの二つの通りが交差する街角のダイナー。大きな店の窓ガラス越しに、明るい店内の4人が描き出されています。男女の雰囲気は当時のフィルム・ノワールそのもので、映画「マルタの鷹」に登場するハンフリー・ボガートが、帽子を目深にかぶり、まるでそこに坐っているかのようです。ハード・ボイルド調のセリフを想像して、カップルの架空劇を楽しみたくなる誘惑に駆られます。

 しかし、この絵の主役は誰かと言うならば、こちらに背を向け独りカウンターに坐っている男です。何を飲んでいるのか、何を考えているのか定かではありませんが、この男の存在に目が引きつけられます。そして青木さんの指摘を受けて気づきましたが、男はカウンターの左端に坐っていますが、絵全体の構図においては中央に位置しています(トリミングしたバージョンをよく見るので、左端という意識が強くなっていました)。鑑賞者からすると絵の真ん中、つまり深夜の闇が広がる「外」の世界と、明るい光に照らされた、束の間の居場所、ダイナーの「内」の世界との、いわば「境界」に位置しています。
 

 
 カウンターの男女の姿にも、コックの存在にも無関心に、黙って一人だけの時間を過ごして、こちらに背を向けて坐る男に、青木氏はヘミングウェイの作品に特有の人物像――自分なりのコード(code=信条)に従って行動する男、いわゆる「コード・ヒーロー」的な何ものかを感じ取っています。
 
〈この男が居なかったら、この絵はこれほど強い印象を与えまい。それくらいこの絵を見れば見るほど……この男の存在に引きつけられる。そこに現代の都会の生活に日夜追われる「自分」の何かが映ってしまうのである。それをどのように表現してよいのか、東京の鑑賞者には判然としない。しかし、何か自己の存在の深いところで感じるものが動く。この動きはこの絵を見るたびについて回る。……東京の鑑賞者は、清潔で明るいところを好む人間であり、夜更かしは日常であるし、どこか独り座っていられる深夜のカフェをいつも探している。東京ではそれは容易に叶わない〉
 
 どうやらこの評論には続きがありそうです。「NACT Review」2号目の刊行が待ち遠しく思われます。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 

*1、コレクションを持たない美術館であるために、「ミュージアム」ではなく、英語では「アート・センター」という呼称を用いています。「The National Art Center,Tokyo(NACT)」を名乗っています。

*2、「殺し屋」は『われらの時代・男だけの世界―ヘミングウェイ全短編 1―』所収、「清潔で、とても明るいところ」は『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪―ヘミングウェイ全短編 2―』所収、いずれも新潮文庫(訳・高見浩)。
 
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