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 トートバッグを肩にJFK展へ
 
 いま国立公文書館(東京・北の丸公園)で「JFK―その生涯と遺産」展が開催されています。1961年1月20日、43歳で第35代米国大統領に就任し、在任期間わずか1037日にして、1963年11月22日、テキサス州ダラスで凶弾に斃(たお)れたジョン・F・ケネディ。

 死後半世紀を経ていまなおその人気は衰えず、ちょうど没後50年目にあたる2013年に長女キャロライン・ケネディ氏が駐日米大使に就任したことで、改めて「彼の人生と軌跡」に関心が高まっています。「輝ける60年代(Golden 60's)」の息吹をまとった爽やかな笑顔、颯爽とした姿、国家の理想を語って人々を鼓舞し魅了した力強い名スピーチは、現代の若い世代にとっても眩しいほどの輝きを放っているに違いありません。

 没後50年に際してはさまざまな本が出版されましたが、もっとも印象に残ったのはスティーヴン・キングの『11/22/63』(文藝春秋)でした。 ごく平凡な高校教師の主人公が行きつけのダイナーの店主から、店の奥にある“過去へ通じる穴”の存在を教えられ、あの痛恨の事件――ケネディ暗殺を阻止するためにタイムトラベルするという物語です。上下2巻の超大作ですが、「素晴らしいとしか言いようのない名訳」、「設定、展開、人物描写、時代描写などすべてが息を呑むほど素晴らしい小説だ」という向井万起男さんの絶賛(*)にウソはありませんでした。是非チャレンジすることをお勧めしたいエンタテイメント作品です。
 
 それはさておき、大統領暗殺をめぐってはいまだに疑惑がつきまとい、陰謀説が後を絶ちません。大統領就任直後に、CIAを中心に準備されたキューバ・ピッグズ湾侵攻作戦は手痛い失敗に終わります。この時の教訓をケネディ自身は後の政策決定過程の糧としますが、同事件をきっかけに、ケネディへの失望と不満を募らせていた軍部が陰で暗殺の糸を引いたとする説、ダレス長官らの罷免をはじめ組織的にやり玉に挙げられたCIAによる謀略説、政権内の対立を背景にしたジョンソン副大統領黒幕説等々、真偽はともかく、誰もが単独犯説には疑問を抱き、事件を検証した「ウォーレン委員会」の報告書に不信の念を隠せません。

 時代の輝くヒーローだった大統領が白昼、しかも華やかなオープンカーでのパレード中に暗殺され、実行犯とされる容疑者は間もなく逮捕されますが(拘置所への移送中、この男もまたダラス市警察の地下でマフィアに関係するといわれる人物に射殺されます)、本当のことはまだ何も明らかになっていない――少なくとも共産主義にかぶれた容疑者の単独犯行だとは誰も信じていない、ということは確実です。そして大統領は、彼を「好ましからざる人物」と見ていた国内のある勢力によって排除されたのだという衝撃が、アメリカ国民の心を深く傷つけ、進歩への自信と夢にあふれた楽観主義の時代に亀裂をもたらしたのです。

 スティーヴン・キングは1973年、まだ高校教師だった時代に、ケネディ暗殺について書こうとしていたと語っています。作家として本格デビューする前後に、すでにこのテーマが彼の中で中心的な位置を占めていたわけです。当時のタイトルは『Split Track(分岐する道)』――まさにアメリカは、ケネディ暗殺によって大きな岐路を迎えたのでした。

 今回のJFK展は、その意味でもこの50年の歴史と、今後の世界の行方を考えさせられる非常に貴重な機会です。これまで海外に持ち出されることがなかったというジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館(マサチューセッツ州ボストン)所蔵の「至宝(crown jewelry)」11点のオリジナルを含めた、約160点の写真や遺品が展示されています。印象に残ったものをいくつか挙げてみます。
 
■椰子(ヤシ)の実のペーパーウエイト
 第2次世界大戦中、海軍に入隊したケネディは、魚雷艇の艇長として南太平洋に赴きます。そして1943年8月、ソロモン諸島沖で日本の駆逐艦と衝突し、自艇を真っ二つに裂かれて沈没。13名の乗組員のうち部下2名を失います。しかし、その後部下たちを引き連れ、自らは重傷の部下1人の救命胴衣の紐を口にくわえ、5キロほど先の無人島まで泳ぎ渡ります。

 そして4日後、出会った2人の島民にケネディは救助を求めるメッセージを、椰子の実にナイフで彫って託します。「原住民は場所を知っている 案内できる 11人生存 小さなボートが必要 ケネディ」。
 
 こうして生存者全員が無事に救われると、このニュースは全米の新聞に大きく報じられます。ケネディは一躍「太平洋の英雄」となります。この九死に一生を得た運命の椰子の実が、後年ペーパーウエイトとして、大統領執務室のデスクに置かれました。なるほどそういう目で見ると、今回の展示写真の何点かに、このペーパーウエイトが写りこんでいます。ケネディを最初に政治家への道に導いたといってもいいかもしれない“守り神”――。

 さらにこの時の日本の駆逐艦「天霧」の艦長が存命であることが判明すると、二人の間に書簡のやりとりが生まれます。艦長からは上院議員に立候補したケネディに手紙が送られ、当選を果たしたケネディからは、返信に添えられて「昨日の敵は今日の友」とサインされた写真が贈られます。それも展示されています。

■大統領演説の草稿
 ケネディのもっとも有名な演説といえば、言うまでもなく大統領就任の際の、15分間のスピーチです。上院議員時代に執筆した『勇気ある人々』(1956年、邦訳・英治出版、2008年)でピュリッツァー賞を受賞した文筆家のケネディが、この日にために約1ヵ月間練り上げたという渾身のスピーチです。とりわけクライマックスで文語調に転じ、力強く呼びかけられた一節は圧巻です。
 
〈……わが同胞であるアメリカ国民諸君。国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え。
 わが友である世界の市民諸君、アメリカが諸君のために何をしてくれるかではなく、我々がともに人類の自由のために何ができるかを問い給え〉(土田宏『ケネディ――「神話」と実像』中公新書より引用)
 
 この演説手書き原稿と、タイプされた本番用原稿がともに展示されています。何度も何度も推敲を繰り返し、完璧を期して持参した原稿を、現場で観衆を前にしてさらに変更していたことが確認されています。"ask not what your country will do for you"の部分が、実際の演説では"will"ではなく、"can"と言い換えられています。テレビ・メッセージを含めて、スピーチに心血を注いだケネディらしいエピソードです。
 
 その意味でさらに興味深かったのは、「ベルリンの壁」が築かれた2年後の1963年6月26日に、ベルリンを訪れた際の演説のためのカードです。古いニュース映像を見ると、大統領は何枚ものカードを繰りながら演説している様子が見てとれます。市庁舎の前にはおよそ100万人の群衆が集まっていました。壁をはさんで東西陣営の緊張が高まるなか、「いま、自由の世界で最も誇りに思うことは『私はベルリン市民だ』ということなのです」と語りかけた大統領が、最後に「イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー(私はベルリン市民だ)」と訴えると、喝采は最高潮に達しました。
 
〈……集まった人びとは異常なまでに興奮した。同席していたアデナウアー西ドイツ首相が、ドイツ国民はまたヒトラーの出現を許すのではないかと心配したと言われているほど、聴衆の情感に訴える演説だった〉(土田宏、前掲書)
 
 この時のカードの右上の余白に、この決定的なフレーズ「私はベルリン市民だ」が手書きで走り書きされています。これも劇的です。

■ケネディからジャクリーン夫人に贈られたキューバ危機記念カレンダー
 キューバのミサイル危機については多言を要さないと思いますが、第2次世界大戦後、世界がもっとも核戦争に近づいた瞬間であったことは、その後の史料公開によっても明らかです。
 
 1962年10月16日朝、ソ連の中距離ミサイル基地が、キューバに建設中であるという衝撃の報告がホワイトハウスにもたらされます。ワシントンを含む主要都市が核攻撃の射程距離内にあることが確認されます。大統領は極秘裏に国務、国防関係14人のメンバーを選び、ただちに「エクスコム」と呼ばれる国家安全保障会議最高執行委員会を召集します。対策をめぐっては、空爆による先制攻撃を主張する軍部を中心としたグループと、海上封鎖を推進し外交交渉による解決を主張するグループと、2派に分かれて激しい議論が戦わされます。

 ケネディは軍事行動ではなく、海上封鎖策をとることに決定し、10月22日夜、テレビを通じて全世界に初めてこの事実を公表し、ソ連にミサイル撤去を求めます。そして、ソ連のフルシチョフ首相との間で直接書簡による交渉を開始しますが、その間にも緊迫した状況は続きます。まさに一触即発と世界中が息をのんだ10月28日、ソ連がミサイル撤去を受け入れ、13日間の危機が終息に向かいます。
 
 展示されているキューバ危機記念カレンダーは、ケネディ大統領が後に、ティファニーに特注して作らせた記念の置物です。危機に瀕した13日間が太字で記され、エクスコム各メンバーにはイニシアルを彫りこんだものが手渡されたといいます。展示されていたのは「JBK(ジャクリーン・ブービエ・ケネディ)」に贈られたものです。こういう細やかな心遣いに、ケネディの人柄とセンスが窺えます。
 
 それと併せて興味深かったのは、キューバ危機のさなかに訪米していた佐藤栄作の日記です。当時、池田内閣の閣外にあった佐藤は、外交・通商問題の協議のため10月17日に渡米し、米側の関係閣僚と会談していました。まだ危機が公表される前ですから、米国が国家の危機に直面し、ホワイトハウス内の別室で激論を戦わせていることなど知る由もありません。「ケ大統領」が「極めて愛想よく」自分たちを出迎え、庭園を案内したと書かれてあり、ケネディが予定通りに公務をこなしていた様子が窺えます。
 
 佐藤栄作日記は他にも大統領就任演説を聞いた1961年1月21日のものが展示されていて、「清新として勇気のある責任政治家の面目躍如たるものがある」と几帳面な文字で書かれています。米ソ首脳が重要な外交交渉を書簡で行っていたことも、次の首相をめざす日本の政治家が、いまではあり得ないような克明な日記を記していたことも、つい50年前の出来事なのです。

 他にも興味深い展示が数多くあり、都合2回会場に足を運びました。2度目に行く際には、肩に「考える人」特製のトートバッグをかけて行きました。理由は、バッグに書かれている言葉です。

 You see things ;
 and you say, 'Why?'
 But I dream things that never were ;
 and I say, 'Why not?'

 イギリスの劇作家ジョージ・バーナード・ショーの有名な格言ですが、上記のベルリン訪問を終えた足で、大統領は翌日、ケネディ一族の故郷であるアイルランドに立ち寄ります。土田宏氏の『ケネディ』によれば、現地の歓迎ぶりは「民族の英雄の帰還」、「聖パトリックの再来」であるかのようだったといいます。そして滞在中の演説で、ケネディはバーナード・ショー(もう一人の有名なアイリッシュである)のこの言葉を引用しています。「存在するものだけを見て、『なぜそうなのか?』と考える人がいる。私は存在しないものを夢見て、『なぜそうでないのか?』と問いかける」。
 
〈夢は見るだけでは意味がない。夢を見て現実を夢に近づけなければならないのだ。バーナード・ショーの警句はジョンの心情をそのまま表現していた〉(土田、前掲書)
 
 
 リンカーン大統領以来の黒人差別撤廃の夢――公民権法の制定、宇宙開発の夢……ケネディ自らは高らかに理想を語るにとどまり、それを実現する機会を持てませんでしたが、道半ばにして斃れた彼を引き継いだリンドン・ジョンンソンらの手によって、やがてそれらは現実のものとなります。トートバッグの文字をケネディその人に見せたい思いで、会場に携えて出かけました。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 

*「向井万起男のどんな本、こんな本」(「考える人」2014年春号
■(※)の写真はすべて、ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館所蔵
 
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