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 戦後70年目の夏に
 
 映画「日本のいちばん長い日」(原田眞人監督)を見に行きました。1967年に岡本喜八監督が映画化した際の衝撃があまりに大きかったので、今回はどうだろうという不安がないでもありませんでした。ところが、構成をすっかり改め、最新の研究成果もふまえた作品は、別種の果敢な試みとして楽しむことができました。
 

 前作では昭和20年8月14日から終戦にいたる最後の一日が、ニュース映像的なモノクロ画面で展開されています。当時の中学生の歴史知識では想像だにしなかった「宮城(きゅうじょう)事件」を知っただけでも、腰を抜かさんばかりでした。

 3月の東京大空襲、6月の沖縄戦終結、8月6日の広島原爆投下、9日の長崎原爆投下、そしてソ連の参戦。大勢が決し、戦争の帰趨があれほどはっきり見えていた最後の時に及んでなお、真剣に「本土決戦」を主張し、戦争継続を求める陸軍将校たちが存在したこと。そこにクーデター未遂事件が暴発し、森赳(たけし)近衛第一師団長暗殺、そして14日に録音された天皇の玉音放送の原盤を奪い、終戦を阻止しようとする動きが起こる……。もしこの叛乱計画が成功していたならば、日本の終戦はどうなったのか――茫然としながら、空恐ろしさを感じたものです。

「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して自刃した阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣(前作では三船敏郎)の最期も凄絶でしたが、天本英世(あまもとひでよ)が怪優ぶりをいかんなく発揮した東京警備軍横浜警備隊長の佐々木大尉――「皇軍の辞書には降伏の二文字なし、そして最後の一兵となるまで戦うのだという絶対の希望のなかに生きていた」と半藤一利氏の原作に記されている――が、一個大隊を動かして首都を襲い、腰抜けの重臣たちを抹殺して降伏を阻止せんとする狂熱は、しばらく悪夢にうなされそうな鬼気迫る演技でした。

 原田眞人監督の新作も、もちろんこの最後の一日に重きを置きますが、物語を今回は1945年4月、鈴木貫太郎内閣が発足するところから始めています。岡本作品が戦争の狂気に焦点を絞ったドキュメンタリー調の群像劇であったのに対し、鈴木貫太郎(山崎努)、阿南惟幾(役所広司)、そして昭和天皇(本木雅弘)の三人の戦争終結に向けた人間ドラマとして仕立てた点が大きく異なります。前作ではロングショットや後ろ姿でしか登場しなかった昭和天皇が、この作品では一人のキャラクターとして言葉を発し、動き、捨て身で戦争終結に尽力する聡明な人物として正面からとらえられます。
 

 ある程度の予備知識がなければ話が分かりにくいだろうという懸念もありますが、そもそも敗戦の過程に関心がゼロの人は見に来ないでしょうから、あまり気にしすぎる必要はないかもしれません。むしろ多少分かりにくさを感じるにせよ、若い人たちに是非見てもらいたいと思いました。

 前作の天本英世に匹敵する脇役は、中嶋しゅう演じる東條英機です。自説を開陳して天皇にたしなめられる場面も秀逸ですが(*)、阿南陸相が不在の時に陸軍省に乗り込んで、大臣室や軍事課をわがもの顔で闊歩し、檄を飛ばす姿を目に焼き付けておくといいでしょう。
 

 さて、今年は戦後70年ということでいろいろ貴重な歴史資料が公開されました。今月1日には、昭和天皇が国民に戦争の終結を伝えた「玉音放送」の録音原盤と音声が宮内庁によって初めて公開されました。またそれに併せて、終戦の「聖断」を下した皇居内の「御文庫(おぶんこ)附属室(地下防空壕)」の現状を撮影した写真や映像も公表されました。終戦を決めた御前会議が開かれた場所であり、「日本のいちばん長い日」のまさに歴史的舞台です。

 ところが驚いた(というより息をのんだ)のは、その激しい劣化ぶりでした。朽ちるにまかせたという他ありません。昭和16年9月、日米開戦を前に陸軍が50日の突貫工事でこれを建設したのは、大本営会議などを開く目的だったといいます。翌年に建造された天皇の住居兼防空施設の「御文庫」とは、約135メートルの地下トンネルで後につなげられました。

 8月10日午前0時3分、昭和天皇がこの部屋に入ります。徹底抗戦か、無条件降伏を迫るポツダム宣言を受諾するか、最高戦争指導会議で重臣たちの意見が割れる中、鈴木首相から意見を委ねられた天皇が、ポツダム宣言受諾の「聖断」を下します。

 ところが12日に届いた連合国の回答は、国体護持に関して曖昧な表現だったために、議論がふたたび紛糾。14日朝、最後の御前会議が召集されます。そして戦争終結の意志に変わりはない、という2度目の「聖断」が下されます。
 

「御文庫附属室」はこの2度にわたる「聖断」が行われ、また戦後日本の出発点ともなった記念碑的な場所です。「維持管理は無用」という昭和天皇の意向にもとづいて放置されていたといいますが、赤絨毯は朽ち、床は腐食して抜け、壁の化粧板もはがれています。鉄扉の塗装も剥げ落ち、濃い赤さびが浮いています。宮内庁は今後も補修はしない方針のようですが、歴史的建造物として復元や保存を検討すべきではないでしょうか。

 国立公文書館(千代田区北の丸公園)で終戦詔書の原本が公開展示されたのも早速見に行きました。「朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し茲に忠良なる爾臣民に告く」に始まる終戦の詔書は、14日の御前会議に続く閣議で決定され、その日のうちに天皇の朗読が録音され、翌15日正午、ラジオ放送を通じて国民に読み上げられました。時間との勝負であったにもかかわらず、案文審議の閣議が難航し、何度も手直しが加えられたといわれます。

 原本を見ると、その焦燥感が一目瞭然で伝わってきました。天皇の御名御璽(ぎょめいぎょじ)の詔書原本であるにもかかわらず、本来ならばあってはならないはずの書き直しや挿入などの痕跡がはっきりと残っています。事態が混乱の極みにあったことがよく分かります。

 展示の解説によれば、浄書作業は通常、閣議決定後になされるものだが、時間の関係で閣議決定を待たずに始められた。そのため、途中で修正を加える必要が生じたけれども、書き直す余裕がなく、用紙を削り、あるいは括弧を用いて字句を書き足すという異例の措置がとられた……。

 映画の中でも閣議決定の際の意見対立は重要な場面です。詔書案として挙がってきた「戦勢日に非にして」という字句をめぐって、阿南陸相は頑として「戦局好転せず」と訂正すべきだと主張するのです。曰く、個々の戦闘には負けたが、戦争の勝負はついていない。国のために戦って死んでいった者たちに対し、またいまだに戦っている部下たちに対し、何と申し訳が立つ! 戦局が悪化の一途をたどっているのは事実かもしれないが、この原案では従来の大本営発表(退却を転戦とカムフラージュして戦果を強調してきた等々)がすべて虚構であったことになる……。
 
〈陸相はこの一点に関するかぎり強硬で、たとえ孤立無援であろうと、譲ろうとはしなかった。最後のときにおよんで、なにが彼をこれほどまで強引にさせているのかと、閣僚たちが訝(いぶか)しく思うほどに、毅然として、自説を主張しつづけた。やがて閣僚たちも陸相の辛い立場を理解するようになった。彼がもっともおそれていたのは部下の暴挙である〉(『日本のいちばん長い日 決定版』文春文庫)
 
 なんだ、組織防衛と体面の問題か、と言うこともできるでしょうが、当時の“歴史的現在”に身をおいてみれば、建軍以来、一度も敗戦を知らない帝国陸軍を率い、しかもいったん聖断が下った以上、何としても部下を絶望的な混乱から救い、彼らに“栄光ある敗北”を与えなければならない、という阿南の必死の努力とジレンマがここにありました。結局、この箇所は大論争の末に「戦局必ずしも好転せず」で決着します。

 同じような論争を引き起こしたのは、「堪え難きを堪え忍ひ難きを忍ひ以て万世の為に太平を開かむと欲す」の前に、「義命の存する所」という表現があったのを「時運の赴く所」に書き換えた部分です。詔書案に関わった陽明学者の安岡正篤(まさひろ)氏が加筆・修正した「義命」という言葉でしたが、「分かりにくい」という理由によって却下されました。

「義命」は中国の古典『春秋左氏伝』にある「信は以て義を行い、義は以て命を成す」からの引用で、安岡氏としては沈思熟考して選び抜いた言葉でした。「義命の存する所」とは「道義の至上命令、良心の最も厳粛な要請」という意味であって、戦に負けたからどうこうするというのでも、「これ以上に戦を続ければ屍山血河の果てに屈するからやめる」というのでもなく、「戦えば戦えるという場合でも、道義、良心の命令とあれば敢然としてそれを捨てる」ことでした。

 安岡氏がもうひとつ渾身の願いをこめたのは、「万世の為に太平を開く」の一節でした。これは、朱子学の先駆者の1人とされる北宋の張横渠の言葉「天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」が出典とされます。

 このあたりの経緯は、今春刊行された老川祥一氏の『終戦詔書と日本政治――義命と時運の相克』(中央公論新社)に詳しく、そこに引用された安岡氏の講話によると、

「私はこのように考えまして、この二つの言葉だけは絶対に失ってはならぬと時の内閣に厳談、厳請いたしました。閣僚たちがこれを審議しましたところ、『万世ノ為ニ太平ヲ開ク』については、戦に負けてこのように言うのはいかにもどうも大法螺めくではないかという意見、また、いや、これは愉快だと賛成するのもあったそうです」

「次の『義命』になりますと、こんな言葉は聞いたこともないという人が多く、我々の分からんような難しい言葉が国民に分かろうはずもないから、これはやはり『時運ノ赴ク所』がよいではないかということになったと聞いております」

 という証言です。しかし、「『時運云々』は、いわば風の吹き回しで、ということです。風の吹き回しで降伏するというようなことは、日本の天皇にあるべき言葉ではありません。……これは非常に残念なことでありまして、仮に後世の学者がこのご詔勅を学問的に取り扱うことになった場合、これは当時の起草者、起草に携わった学者に識見がなかったことを証明するものだと言うでしょう。……実に永遠に拭うことのできない恨事であります。……このことは私の触れたくないことであり、語るを欲しないことであります」と続きます。
 

 映画では、鈴木首相が紛糾する会議を絶妙のタイミングで切り上げ、「じゃあ時運の赴く所でいきましょう」と議論をまとめる老獪かつ豪胆な芸を示します。先の著書で老川氏はこう指摘します。
 
〈それにしても、よりによって「義命」から「時運」への書き換えとは。詔書の審議にあたった政治指導者たちの心底のありようを、はからずも自らさらけ出してしまった形である。ここで戦争をやめることが国家と国民、そして世界のためになるのだという大義の認識と、ここから国家の再建に立ち上がるのだという決然とした意志の発現、というのとはまったく正反対の、成り行きで仕方なく、ずるずるべったりの流れに従って、やむをえずこうするという無気力な心的構造。これこそが、二・二六事件以来の軍の暴走、勝算のない日米戦争への突入、そして三〇〇万人を超す日本国民、アジア諸国を加えれば数百万人もの犠牲者を出す大失策を招いた、日本政治の病理を示すものではなかったか〉
 
 終戦70年を経て、まだ歴史の真相の闇は深い、という思いがあります。一方、あの混乱の極みの中で、それでもよく終戦にこぎつけたな、という感慨も入り混じります。

 終戦詔書の原本でもっとも目を引くのは「敵は新に残虐なる爆弾を使用し」に続く箇所です。挿入カッコで脇に小さく「て頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し」と書き足されています。あまりにも作業を急かされたせいでしょう、浄書後に書き落とされていることに気づいたのでした。詔書作成のドタバタ劇を象徴するかのような9文字です。
 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
文中スチール写真 (C)2015「日本のいちばん長い日」製作委員会 
 
*東條陸軍大将が不用意にサザエのたとえ話に持ち出したところ、海洋生物学に造詣の深い昭和天皇に厳しくたしなめられる展開になります。こうした天皇の横顔は、「考える人」夏号からの新連載、池澤夏樹「科学する心」の第1回「ウミウシの失敗」を是非ご参照下さい。
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