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梯久美子『勇気の花がひらくとき――やなせたかしとアンパンマンの物語』(フレーベル館)

 なんのために 生まれて なにをして 生きるのか

 子どもたちに絶大な人気があるのは知っていましたが、身近に子どもがいなかったせいで、絵本もアニメも見る機会がなく、テーマソングを聞くこともありませんでした。アンパンマンの人気の秘密は、よく分からないままでした。

 ところが、東日本大震災の後、被災地の避難所で、ラジオから流れる「アンパンマンのマーチ」に合わせて、子どもたちの大合唱が始まったという話を聞き、目を開かれるような衝撃を受けました。

 そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも

 なんのために生まれて なにをして生きるのか
 こたえられないなんて そんなのはいやだ!

 今を生きることで 熱いこころ燃える
 だから君はいくんだ ほほえんで

 本書は、「アンパンマン」の生みの親であるやなせたかしさんの評伝です。子ども向けに書き下ろされた136ページの物語ですが、鮮やかに浮かび上がるのはやなせたかしという稀有な漫画家の詩心です。

「内気でさびしがりやだった、ごくふつうの男の子」が、どのような経路をたどって「ぼくの子供であり、ぼく自身でもある」というアンパンマンを生み出したのか。生涯を綴る各章の冒頭に、その内容にもっともふさわしい詩作品を置いたのは、詩人としての彼の本領をより際立たせたいという、著者の願いの表われです。「アンパンマンのマーチ」の作詞も、もちろんやなせたかし自身です。

 さて、日本じゅうで愛されているアンパンマンの人気の秘密――。本書には、アニメの「アンパンマン」を成功させたテレビプロデューサーの話が出てきます。それ以前にもテレビ化の企画は浮上していましたが、「いまの子どもたちには、こういう地味なものはうけないよ。ヒーローは、かっこよく敵をやっつけないと人気が出ないからね」という反対論に押し潰され、実現には至りませんでした。今回も難しいだろうと、やなせさんは思っていました。実際、たいへん険しい道のりでした。本来なら、とうにあきらめてもいいはずなのに、このプロデューサーは粘りました。
 
〈「どうしてそんなに熱心なの?」
 たかしがきくと、その人は言いました。
「ある日、子どもがかよっている幼稚園にいったら、たくさんある絵本の中で、一さつだけ、手あかがいっぱいついて、ぼろぼろになっているものがありました。それが、アンパンマンの絵本だったんです」
 ぼろぼろになっていたのは、おおぜいの子が、何回もくりかえし読んだからでした。
「みんな、こんなにアンパンマンが好きなんです。テレビアニメにしたら、ぜったいに人気が出ます」〉
 
 子どもたちがとっかえひっかえページをめくったので、この1冊だけがボロボロになっていたのです。その絵本を見た瞬間に、テレビマンに“何か”が閃(ひらめ)きます。見る人をなごませ、明るい気持ちにしてくれる主人公。強くてかっこいいヒーローではないけれど、お腹をすかせた人たちのために、自分の顔を食べさせるという正義の味方は、これまでにないキャラクターでした。

 それに先立つこと10数年前、54歳の時に初めて『あんぱんまん』という絵本を書きました。評判は芳しくありませんでした。「マントはぼろぼろだし、ヒーローなのにちっともかっこよくない」、「顔を食べさせるなんて、ざんこくだ」といった批判を浴びました。
 
〈でも、たかしがこの絵本でいちばんえがきたかったのは、おなかをすかせた人に顔を食べさせたアンパンマンが、元気をなくしてふらふらになるところだったのです。そこには、
(正義をおこない、人を助けようとしたら、自分も傷つくことをかくごしなければならない)
という考えがありました。
(自分の食べものをあげてしまったら、自分が飢えるかもしれない。いじめられている人をかばったら、自分がいじめられるかもしれない。それでも、どうしてもだれかを助けたいと思うとき、ほんとうの勇気がわいてくるんだ)
 アンパンマンの評判が悪くても、たかしはこの考え方をかえませんでした〉
 
 顔が濡れただけで力が抜けてしまう。武器は何ひとつ持っていません。誰かに顔を食べさせたら、毎回、ジャムおじさんに作り直してもらわなければなりません。それでも、困っている人がいれば、自分の危険もかえりみず、必ず「君を助ける」ために飛んでいく――。このようなヒーローの着想は一体どこから生まれてきたのでしょう。

「人はなぜ、なんのために生きるのか」。やなせたかしの魂の遍歴を、本書はいつくしむように描きます。

 やなせたかしという名前には、早くからなじみがありました。1964年から67年にかけて、NHKテレビで毎週月曜日夕方6時から放送された「まんが学校」を見ていたからです。まだ白黒時代のテレビ創成期。若手(!)落語家の立川談志が司会を務めるクイズ番組で、オープニングに漫画の描き方を子どもたちに教えるベレー帽のおじさんというのがやなせさんのイメージです。

 ところが、実際のやなせさんの作品に触れる機会はありませんでした。当時、漫画雑誌で人気を誇った手塚治虫、横山光輝、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、ちばてつやといった漫画家たちとはまったく違う道を行く人でした。「遅咲きだった」という言い方を、やなせさん自身は好みます。

「ぼくはポツンと取り残されていて、華やかな一群の後方はるかに置き去りにされた」、「ぼくは漫画集団員ではあったが、ほんの片隅の見えない星屑にすぎなかった」(『アンパンマンの遺書』岩波現代文庫)。

「手のひらを太陽に」というやなせさん作詞のヒット曲は、「もともとは、たかしが自分をはげますためにかいたものだった」と聞くと、納得のいく思いがするのです。

 ところで、本書を読む前に、たまたま門田隆将氏の『慟哭の海峡』(角川書店)を読み、台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で戦死したやなせさんの弟、千尋(ちひろ)さんのことを知りました(1944年12月、23歳没)。

「アンパンマンの顔を描くとき、どこか弟に似ているところがあって、胸がキュンと切なくなります」とやなせさん自身が語っているように、弟には格別な思いを終生抱き続けました。「千尋があの時、死なないで生きていたら」と思い出してはしょっちゅう口にしていたらしく、2年前に亡くなる直前にも、先に逝った最愛の妻と、弟の名を呟いて、「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」と言葉を続けたというのです。
 
〈「兄ちゃんといっしょでなければいや」
と言って、いつもくっついてきた弟は、ひとりで遠くへいってしまったのです。
(なぜちひろが死んで、ぼくだけが生きのこったのだろう。ちひろは、ぼくなんかよりずっと優秀だったのに。ハンサムで明るくて、みんなに好かれていたのに)
 たかしは、ちひろのお墓の前に立って話しかけました。
「いったいきみは、何をしたかったのだろう。きみのかわりにやるとすれば、ぼくは何をすればいいのだろう」〉
 
 門田氏の著書には、先ほどのテレビプロデューサーの証言も出てきます。「アンパンマンと千尋さんって、ちょっとダブっている気がするんです。(中略)先生は、千尋さんの顔をアンパンマンに重ねあわせていて、たぶんアンパンマンが生まれた時に、そういうイメージが先生にあったのではないでしょうか」。そして、やなせさん独特の正義感についても語っています。

「子供たちに“正義というのは大事なんだよ”ということを、アンパンマンを通して教えていく、という先生のメッセージは一貫していたような気がします。自己犠牲というか、頭を、お腹が空いてる子供たちにあげて、そして、自分はそれでいいんだ、というような犠牲的精神を、アンパンマンはいつも持っています。(中略)もしかしたら、やなせさんには、弟さんのことを思っている部分がどこかにあって、それを引き継いでいるのかもしれないんだ、と思います」

 ところで、本書の著者である梯久美子さんは、太平洋戦争で壮絶な戦場となった硫黄島玉砕時の総指揮官・栗林忠道中将を描いた『散るぞ悲しき』(新潮文庫)で2006年大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。それを喜んだやなせさんは、自らが編集長を務めていた「詩とファンタジー」に梯さんを招いて対談します。そこで自らの戦争体験や、千尋さんの話を初めて梯さんに語ります。もっとも、梯さんとのそもそもの縁の始まりは、ずっと昔にさかのぼります。
 
〈わたしは、小学生のときに「やさしいライオン」の映画を見て感動し、高校生のころから、やなせ先生が編集長をされていた『詩とメルヘン』に、詩をかいておくるようになりました。何度か掲載されたのがうれしくて、大学を卒業すると、上京して『詩とメルヘン』を出版している会社に就職し、やなせ先生のもとで働くようになったのです〉(本書「あとがき」より)

〈やなせ先生は、学校の先生をしたことはないけれど、みんなが自然に「先生」とよびたくなる人でした。この先生は、けっしていばらないし、ああしろ、こうしろとも言いません。いつもだまって自分の仕事をしています。でも、だれかが元気をなくしたり、ピンチに立たされたりすると、かならず助けの手をさしのべてくれるのです。とてもさりげなく、そして、少しはずかしそうに〉(同)
 
 30年間も編集長を務めた「詩とメルヘン」と、それを引き継いだ「詩とファンタジー」に関わった人たち(寄稿者、編集者、読者など)を一堂に集めたパーティを、やなせさんは毎年、自前で開催しました。初回は75人だったのが、最後の頃は200人を超えたその会は、名づけて「星屑同窓会」――。

「詩とメルヘン」では、毎号選に洩れた詩を5、6篇、小さく掲載するページがありました。モノクロの地味な体裁ですが、一篇一篇にやなせさん自身がさし絵をつけました。「小さな活字でも、載るとうれしいでしょ」というので、「星屑ひろい」と命名されました。大きく輝く星だけではなく、見過ごされる星屑にも目をとめようという編集長のはからいです。
 
〈わかくて無名でまずしくて、でも、何かになりたいというこころざしをもった人に、やなせ先生はほんとうにあたたかかった。きらめく才能よりも、いっしょうけんめいさをたいせつにして、「天才であるより、いい人であるほうがずっといい」と、よくおっしゃっていました〉
 
 先月13日がやなせさんの3回忌でした。8月には、戦後初めてバシー海峡戦没者の大規模な慰霊祭が、台湾の最南端で行われました。本書の刊行が、戦後70年のタイミングに重なったのも、何かの符合かもしれません。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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