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徳岡孝夫『五衰の人――三島由紀夫私記』(文春学藝ライブラリー)

 四半世紀を経て書かれた歴史

「実は、あす朝十一時に、あるところに来てほしいんです。だが、このことは、くれぐれも口外なさらないように願います」

「おいで願う場所は、あす朝十時に編集部へ電話で指定します。あ、それから、毎日新聞の腕章と、できたらカメラを持って来て下さい。それじゃ、あす十時に」

 45年前の11月24日、午後1時をまわった頃でした。「サンデー毎日」編集次長を務めていた著者は、ダラダラ続いていた編集会議をそろそろ切り上げようとしていました。電話をかけてきたのは、三島由紀夫氏です。声の調子はふだんと変わることなく、上記の用件を告げると、電話は切れました。

 翌朝、出勤すると、いまさっき三島さんから電話があったと告げられます。時計を見上げると、指定された午前10時を5分過ぎていました。「しまった」と思う間もなく、2度目の電話がかかってきました(断るまでもありませんが、当時、携帯電話などは影も形もなく、卓上の大きな、おそらくは黒い電話器のベルが鳴ったのです)。
 
〈「もしもし」三島さんの声だった。私を確認してから、彼は言った。
 「おいで願う場所というのは、市ヶ谷です。自衛隊市ヶ谷駐屯地のすぐそばに市谷会館というのがありますが、そこへ午前十一時に来てほしいんです。玄関に楯の会の制服を着た倉田または田中という者がおります。その者が御案内することになっております。では十一時に」
 「承知しました」
 会話はそれだけだった。余計なことは何ひとつ言わなかったが、丁寧で落ち着いた話しぶりだった。切迫した気配など、全く感じられなかった。私は静かに受話器を置いた〉
 
 これが生前の三島と著者がかわす最後の会話になろうとは、まだ知る由もありません。けれど、1時間後に決行されるいわゆる三島事件の証言者として、NHKの伊達宗克、「サンデー毎日」の徳岡孝夫、ふたりの運命の歯車はすでに回り始めていたのです。「傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、小生らとしては、純粋に憂国の情に出でたるものであることを、御理解いただきたく思ひます」としたためられた便箋4枚の私信とともに、檄文、写真の入った封筒が、午前11時、市谷会館の玄関で楯の会の若者から手渡されます。死地に赴く三島から託されたのは、現場を目撃し、彼らの真意が正しく世間に伝わるように、それらを発表してほしい、という最後の頼みでした。「警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上」、「檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく」という遺言でした。
 
〈三島さんは、さながら戯曲の筋を組み立てるような周到さで、死に至る行動のプロットを、ディテールに至るまで準備した。
 究極の目的はただ一つ、三島と森田の二名が予定どおり割腹して死ぬことである。それに付随して、決起行動の真意が正しく世に伝わるという目的があった。すべてはそれを達成するよう設計され、万一途中どこかで故障が起きても運動の流れが安全な側に誤動作するよう、綿密なフェイルセーフが施された〉
 
 45年という歳月を経てなお、現場の緊迫感が生々しく伝わります。「死ぬこと、ただ死ぬことのみが、あの日の三島さんの目的だった。結果的に甚だドラマチックな演出になったが、それは観客を巻き込んだ即興劇にすぎなかった」。そして、表層的な世相は移り変わったにせよ、私たちを取り巻く日本の基本的な社会心理構造がいまとほとんど変わっていないことにも驚きを禁じ得ません。

 私が初めて著者と出会うのは、この事件から10年近くが経ったあたりです。「この人があの時の……」と思う一方で、その話を切り出す機会は容易に巡ってきませんでした。ながらくベトナム報道に携わった著者に、増え続けるインドシナ難民など、別種のテーマについての原稿を依頼する仕事が続きました。

 外柔内剛を地で行くような、人あたりの柔らかい大阪人。物腰は丁寧で、えらそうな物言いはいっさいありません。語彙が豊かで、文学についても並々ならぬ素養の持ち主です。温顔でユーモアをまじえながら、しかも舌鋒鋭いひと言を繰りだすベテラン記者に、上っすべりな質問を投げかける気にはなりませんでした。高校生時代に受けた三島事件の衝撃を、自分でもどう消化していいものやら、私自身が持て余していたこともありました。

 ドナルド・キーン氏と著者との三島由紀夫追善の旅『悼友紀行――三島由紀夫の作品風土』(中公文庫)の1冊はありましたが、本書の原本が1996年に刊行されるまで、長い沈黙が守られたと言ってもいいでしょう。前年、「文學界」に連載が開始されたその月から、貪るように読みました。今回、新たに文庫化されたのを読み返してみて、徳岡さんという人に後事を託した三島さんの慧眼と僥倖を改めて感じないわけにはいきません。

 三島由紀夫に関する研究、伝記、回想、評論は、それこそ「汗牛充棟」、数えきれないほど出ています。いまさら「自分が追加すべきものは何もない」と著者は感じたといいますが、心中深くに刻まれた作家の姿――晩年の3年半に知遇を得、最後はバルコニーの上と下、頭上8メートルの高さをへだてて獅子吼する彼の演説をメモした側がどうしようもなく抱え込んだ屈託に、いずれは決着をつけなければならなかったと思われます。

 その意味で本書は、畢生(ひっせい)のドラマの関係者席に招待された観客が、自作自演の作家がなぜあの死を選んだのか、仔細に記憶を辿り、彼の文章、発言の紙背に目を凝らし、執拗に問いかけたレポートです。

 といって、著者は自らの立場と分を忘れていません。自分はながいこと新聞記者として、数えきれない人を取材して、たくさん「面白い」人にも会ってきた。「こういう人の話を聞けるのこそ新聞記者の法悦だと感じ」ていた。であるがゆえに――と自戒の言葉を発します。
 
〈しかし、私は努めて自分の感動を殺した。溺れてはならない、自分は取材のプロなのだ、商売女が客の情欲を無感動に捌(さば)くように仕事を処理しなければならぬと自分に言い聞かせ、相手に向かってのめり込むまいとした。……
 なるたけ批判精神を養って「面白い人」と距離を置き、面白さの裏を読み、騙されまいぞと努力した。だが、そう意識的に努めてさえ抵抗し難い「面白い人」はいるもので、三島由紀夫さんはその一人だった〉
 
 この距離感が絶妙で、のめりこむことを自制しながらも、つい引き込まれてしまう相手の面白さが本書には随所に出てきます。著者は「阿呆らしい」という形容詞を、何度か印象的に使っています。
 
〈誰に頼まれたわけでもないのに裸になって両手首を縛らせ、腹に矢だか槍だかを突き立てられ苦悶の表情を写真に撮らせる。いくら幼時に見て刺戟を感じた構図であろうとも、三島さんのそんな行為は、私の見るところではマゾヒズムというよりキッチュ趣味以外の何物でもなかった。文壇や文壇を取り巻くジャーナリズムの評判はいざ知らず、常識人から見ると阿呆らしかった〉
 
 最初に著者が三島氏に会ったのは、昭和42年(1967年)5月28日、自衛隊に1ヵ月半、体験入隊した直後です。インタビューしながら、三島の人柄に好感を抱く一方で、いいトシをして、若者と一緒に走ったり、肉体を酷使するのは、「酔狂」に属すると、正直な感想を隠しません。

 次の出会いはタイでした。同じ1967年の10月に、著者が特派員として赴任していたバンコクに三島がやってきます。ノーベル文学賞の有力候補とされ、前年のマスコミ攻勢に辟易(へきえき)した作家が、小説取材の用も兼ね、インド旅行の帰途に立ち寄って、東京での騒ぎから一時避難したのです。「あなたは退屈している三島さんを知る珍しい日本人です」とドナルド・キーンさんに言われたように、
 
〈三島さんは午前十一時には起きていたから、日本でのように夜通しホテルの部屋で執筆していたわけではないだろう。とすると、バンコク滞在は彼の生涯の中で珍しい無聊(ぶりょう)の日々だった。そこへ取材をするでもなく、用らしい用もないのに毎日漫然と遊びに来る私を、三島さんは変わった奴または面白い奴と感じたのではないだろうか。自決の日に受け取った手紙の中には「バンコック以来の格別の御友誼」とあった。私は偉い人に会うつもりで行ったが、彼は私を友と思ったのかもしれない〉
 
 トランジットのような空白の時間に、気兼ねなく、自由闊達な会話を楽しんだこのひと時は、孤独な作家にとってかけがえのない思い出になったであろうことは容易に想像がつきます。

 そして3度目は、昭和45年(1970年)6月に南馬込の三島邸で、「士道」についてインタビューした時です。よく晴れた日の午前11時頃に訪れると、「例のコロニアル様式の家のフレンチドア」からいきなり半裸の三島が現われて、芝居気たっぷりに言いました。
 
〈「やぁ徳岡さん。あなたとはいつも太陽の下で会う!」
 気圧(けお)されて、われわれ三人は少し後ずさりした〉
 
 といった調子で、一定の距離を置きながら三島の面白さを描いています。そしてインタビューの間合いについて、少し解説をほどこします。
 
〈……私は三島さんと話すとき、それが取材であるかどうかを問わず、なるべく挑発的な話の持っていき方をするよう心掛けた。それは三島さんがとくにpolemic(論争好き)だからというのではなく、多少とも互いに挑発的な、従って緊張感のある対話が好きらしいことを、私の方で感じていたからだった。
 相手が緊張感のある会話を好む人かどうか、新聞記者は長年の勘で嗅ぎ分ける。私は三島さんを生涯に三度インタビューしたが、三度とも「私はこう思います」「そうは思いません」と言った。「世間は……と見ているようですが」「そのへんどうですか」という緩んだ質問は一度もしなかった。三島さんの側にも、記者にダラケた質問をさせない真剣味があった〉
 
 著者は三島氏について、「健全な常識を備えた人」、「バランスのとれた判断のできる人」、「死に方が死に方だったから、よほどヘンな人のように思われがちだが、そうではない。私の知る三島さんは……なお元大蔵事務官の素性を失わない、素面(しらふ)の常識人だった」と述べています。こうした作家の素顔を、著者もまた冷静に、常識人の立場から見ています。この程の良さが本書の魅力であり、そうであろうとする誠実さが全体の説得力を支えています。

 言ってみれば、交流は晩年の僅かに3年半。肝胆相照らすといった濃密な関係があったわけではなく、最後に託された重責についても、著者はクールに見ています。
 
〈まず現場を目撃する役を伊達氏と私に割り振り、前日の電話で口外を禁じた。もっと親しい人や犬馬の労をとる編集者は何人もいたはずなのに、ジャーナリスト二人を択んだ。それはオフレコだがと前置きして情報を流せば約束を守るプロだからである。また(編集者と違って)職業的傍観者であり、取材した情報をいち早く、裸のまま世間に知らせる技術者である。しかも一人は放送、一人は活字、メディアの二分野を確保した。
 だからといって、伊達氏と私を全面的に信用したわけではない〉
 
 書きたいことは限りなくありますが、後は本書をお読み下さい。

 三島由紀夫、生きていれば今年で90歳を迎えていました。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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