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長谷川康夫『つかこうへい正伝 1968-1982』(新潮社)

 つか行進曲の時代

「世の中にこんな面白い芝居があるのかと思いましたね」

 初めてつかこうへいの芝居『ストリッパー物語・惜別編』を観た紀伊國屋ホール支配人、金子和一郎さんの感想です。時は1975年暮れ、場所は青山のVAN99ホール。60年代にいわゆる「アイビー・ルック」で一世を風靡した服飾メーカー「ヴァンヂャケット」が、73年3月に、青山通りに面した同社別館一階にオープンしたのが、このホールです。

 そこへ翌年8月、学生演劇で評判の“つかこうへい”が乗り込んできます。初日から客の入りは抜群で、公演を重ねるごとに、青山通りに並ぶ行列の長さが話題となります。そして公演6作目の『ストリッパー物語・惜別編』のあたりから、“つかブーム”と呼ばれる社会現象がいよいよ熱を帯びていくのです。
 

 演劇界のプロ中のプロである金子さんと、芝居を観始めて間もない大学生だった私とが、おこがましくも一字一句、同じ感想を口にしました。本書の著者である長谷川康夫さんも、その2年半前、入学直後の早稲田大学6号館で、つか芝居『郵便屋さんちょっと』に遭遇し、同じセリフを漏らしていました。
 
〈「なんだこれは」……ただただ呆気にとられていた。映画でも演劇でも音楽でも文学でも、何かの作品を前にして、腰を抜かしたというような感覚は、人生の中でこのとき一度きりだ。決して大げさではなく、僕は今でもそう思っている。台詞のスピードや掛け合いのテンポ、語られる中身はもちろんだが、それ以上に、次々と飛び出す思いがけない演出が僕を圧倒した。(中略)
 客席からは終始ドカンドカンと笑いが起きたが、僕は声を漏らすこともなく、ただ息を呑んで舞台を見つめていた。
 一時間少々で芝居は終わり、客席は明るくなった。
 「興味のある新入生は残ってください!」
 後ろから声が聞こえた。その声の意図とは関係なく、僕は立ち上がれなかった。今の芝居を作ったのが、モンシェリで会ったあの「つかこうへい」だということが、うまく繋がらなかった。斎藤公孝の言った「すごい人」が、僕の中でまったく形を変えたものになっていた。その「すごい人」にもう一度会ってみたいと思った。
 そしてこの瞬間、僕の人生は決まってしまったのだ〉
 
 本書は、こうしてつかこうへいがつかこうへいとしてもっとも輝いていた時代に、彼と出会い、その姿に魅了され、否応なしに熱狂の渦に巻き込まれた当事者が、ありし日を呼び覚まし、演劇人つかこうへいの本領に迫ろうとした渾身の評伝です。現代演劇の世界は「つか以前」と「つか以後」に分かれるとまで言われた、つかこうへいとは一体どんな存在だったのか。
 

 1968年、慶應義塾大学文学部に入学し、「三田詩人」に詩を書いていた金原峰雄という若者が、やがて芝居の世界に目覚めます。そして6畳一間のアパートに「つかこうへい事務所」と手書きの表札を掲げたその日から、徐々に才能を開花させ、70年代を席巻する一大旋風を巻き起こします。それまで芝居に縁もゆかりもなかったような若者たちの心をわしづかみにし、演劇界を震撼させた矢継ぎ早のヒット作。そして勢いが最高潮に達したと思った瞬間の、82年の劇団解散――。

 語るべきテーマはそこにあるにもかかわらず、これまで手つかずだったその14年を、当時の記録や資料、関係者のインタビュー取材をもとに再現し、いや何より俳優として、つかの原稿執筆のアシスタントとして、“疾風怒濤”の創作現場で、作家の横顔、行動をつぶさに眺めた著者自身の実感を熱く物語ったのが、本書です。

 執筆におよそ3年半。トータル550頁を超える大著です。長い、といえば、その通りですが、抜群に面白い1冊です。つか芝居を実際に観た人はなおのこと、知らない人にとっても間違いなく――。

 5年前の7月12日、つかさんの死が伝えられた日の夜は、かつての劇団仲間が三々五々、新宿の飲み屋に集まりました。一同、涙にくれる心づもりだったのに、結局、思い出話で盛り上がったとか。
 
 
〈傍若無人で小心で、残酷なくせに心優しく、とことん楽天的だと思ったら、死ぬほど悲観的になる……世の中の人間すべてをバカと呼び、稽古場で芝居が気に入らなければ、役者を一日罵倒し続け、取材が入れば、どの役者よりも目立とうとする……〉
 
 青山から新宿に進出し、ホームグラウンドとした紀伊國屋ホールを、「演劇すごろく」の“上がり”として、後続世代がめざしたのも、つかの登場があってこそ。劇団解散まで、7年間に19公演、400ステージを提供した紀伊國屋ホールのスタッフも、つかは格別の“恩人”だったと語ります。
 
〈つかさんの芝居が来るというのは、舞台事務室にとってもどこかお祭りだった。観客たちが芝居を待っているのと同じように、ホールのスタッフたちも、つかさんを迎えるのがうれしくて仕方がなかった。通路にギューギュー詰めに座ってもらう当日券のお客たちも、案内する僕らも同じような年齢で、一緒になってそのお祭りに参加しているような感じだった。詰められれば詰められるほど、お客もそれを喜ぶというような……だから文句を言う人間は一人もいない。そういう時代だった……もちろん芝居の面白さが皆を引き寄せているのだけど、観客の方にも自分が今、その場にいるという高揚感や達成感みたいなものがあったんだと思う。それは僕ら劇場スタッフもまるで同じだった〉
 
 この感覚は、きっといまでも伝わる性格のものだと思います。証言は続きます。
 
〈一度観に来た人間がまた知り合いを誘ってやってくる。こんな面白いものを誰かに観せたい、そして経験者としてあれこれ説明したい、そんな感覚。入場料が安いので(「映画より安い値段で」というつかの考えで700円という破格の設定・引用者註)、何度でも来られる。おまけにつかさんの芝居は観るたびにディテールに込められた狙いが新たに発見出来て、またそれを同行者に解説出来る……ずっとこの連鎖で、お客が増えていったような気がする〉
 
 
 究極の“口コミ”と著者は呼んでいますが、似たような経験は私の周りでもありました。いつも髪を切ってくれていた若い理容師が、その日に限って、目を輝かせて話しかけます。映画化された『蒲田行進曲』のことでした。「あんまりにも泣けて泣けて、とうとう次の日、また観ちゃいました。その次の日には友だちを引っ張って行ったんで、もう3回観ちゃいました。いいですよねぇ。皆に言ってやるんです、観ろって」。ふだんは映画も芝居も関係ない、クールに見える青年だけに、つかたちがやり遂げたことの大きさを、この日ほど実感したことはありません。
 

 紀伊國屋ホールでの上演回数でいえば、『蒲田行進曲』は123ステージ、『熱海殺人事件』は165ステージ。やはり、つかこうへいの代名詞は『熱海殺人事件』なのだと思います。
 
〈春です。つかです。熱海です〉 
 
 自ら作ったキャッチフレーズだといいますが、毎年4月は「熱海」というのが紀伊國屋ホールの定番でした。作家は語っていたそうです。

「田舎から出てくるとな、みんな、まず何か東京にしかないものに触れなきゃならないと思うんだよ。で、雑誌なんかで見聞きしてて、胸高鳴らせて、俺の芝居を観に新宿までやってきて、紀伊國屋ホールに向かう。そして当日券に並んで、座布団渡されて通路に座る。まぁびっくりするわな。でもこれで東京に出て来た実感ってのを得るわけだ。そこで俺たちは絶対に期待以上のものを観せてやる。そうすれば、俺たちの芝居は一生、連中の心に残るんだから」

 つかさんの肉声がいまにも聞こえてくるような台詞です。こうして「時代のアイコン」となったつかこうへいと、生身の人間つかこうへいとの虚実皮膜のドラマもまた、本書の読みどころのひとつです。

 つか芝居を彩る俳優たち――三浦洋一、平田満、風間杜夫、根岸季衣、加藤健一、石丸謙二郎らのとっておきの話から、制作スタッフなどとのやりとりまで、いわく言いがたいつかの個性、理解を超えた行動パターン、ハッとするような冷酷さ、愛すべき駄々っ子ぶりが目に浮かびます。何度聞いてもおかしいのは、『戦争で死ねなかったお父さんのために』でつか芝居デビューとなった風間さんを、千秋楽の打上げ後、自宅に引っ張って行った時の話です。
 

「……出たら、突然つかさんが『おい、風間ちょっと来い』って声かけてきて、強引にタクシーに乗せられてマンションに連れて行かれた。で、部屋入ったとたん、あの人、パンツ一丁になるのよ。俺、やばいなって……つかさんってそっちの趣味の人なのかって……なんでみんな、教えといてくれなかったんだってね……そしたら自分で冷蔵庫から氷出して、自分の分だけ水割り作って、『おう、座れ』って。ドキドキしてたらつかさん、『おまえ、これからも俺と芝居をやってく気あるか?』。いかにも芝居がかって、渋く言うわけよ。『ええ、つかさんの芝居やりたいです』って答えたら、『そうか、じゃあ、帰れ』……それだけ。なんのこっちゃ、どういう人なんだ、と思いながら、場所もよくわからないマンション出て、なんとか新宿戻って、みんなが飲んでるんじゃないかって場所あちこち探してね……いやぁ、大変だった」
 

 この類の逸話がふんだんに出てきます。『出発』という初期作品の上演初日に現われたつかさんが、演出家のことはお構いなしに、いきなり役者たちを舞台に集めると、冒頭場面を全部作り変えたというのです。
 
〈客入れの時間が来ても、つかは台詞作りをまったくやめようとしなかった。困ったのは受付の市村である。やって来た客たちで溢れるシアターグリーンの狭いロビーで、頭を下げ続けたという。結局、開演時間を過ぎるまで稽古は続き、そこからようやく客席を開放し、十五分ほど遅れて『出発』は始まった。ところがそんなバタバタにより、初日の芝居は今ひとつ噛み合わず、終演後、出演者たちはつかの怒りを恐れ、楽屋の窓から裏の墓地を抜け(劇場は寺の敷地にあった)、逃げて帰ったというオチまでつく〉
 
 いかに暴君として君臨していたかが窺えます。伝説の“口立て”というつか流作劇テクニックが、なぜあれほどの成功を収めたか。台詞、音響、照明などがピタリと照準を合わせた演出のインパクト――等々、現場のダイナミズムを体感した言葉にはリアリティーがこもります。
 
 
〈つかの芝居の魅力が、何よりも台詞の妙だったことは、今でも文字として確認することができる。しかし若者たちを劇場に引き寄せたのがそれだけではなく、こうした“つか演出”であったことは、どうしても忘れられてしまう。その“演出”は台詞の言い回しや、会話のテンポ、息づかいなどにも、事細かに施されているわけだが、残念ながら今それを伝えることは出来ない。演劇とはそんな一回性のものであるとわかってはいても、やはり歯がゆくてならない〉
 
 
 読み終えて、あまりの懐かしさに、つかさんの本を久々にいくつか取り出しました。本書にも度々引用されている『つかこうへいによるつかこうへいの世界』(白水社、1981年)という1冊。扉を開けると、つかさんのサインが入っていました。何というバランス! この脱力するような可笑しさが、振れ幅の大きさと併せて、つかさんでした。

「おめえらが、ウケてんじゃねぇ、俺がウケてんだ!」――出番を終え楽屋に戻ってきた役者たちに、つかが何度も繰り返した言葉だとか。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
 
*都合により来週は1回休みます。次回の配信は12月10日です。
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