Kangaeruhito HTML Mail Magazine 654
 
 対談というもの
 
「男性に対する辛辣な言葉を残している」と、朝日新聞「天声人語」(11月27日)が紹介しています。9月に亡くなっていた、と訃報が伝えられた女優、原節子さんが「1957年に高名な学者と雑誌で対談した折の発言だ」とあります。すぐに「あれだな!」と記事が思い浮かびました。

「中央公論」1957年11月号に掲載された向坂逸郎(さきさかいつろう)氏との対談です。向坂さんは九州大学教授。マルクス主義経済学の泰斗で、激しい争議が続いていた福岡県・三井三池炭鉱労組の理論的支柱として、まさに“時の人”でした。「東京物語」など小津安二郎映画の「古風で控えめで貞淑な」原さんとは対極的なイメージです。当時、原さんは37歳、向坂さんは60歳。対談記事の前口上には、こう謳われています。

〈二十年の想いをひめてスクリーンの恋人と語る、老学究の心暖まる人生論〉

 いま読んでも中味の濃い、実に面白い対談です。もちろん、この記事が世に出た時に、私自身はまだ4歳。原節子という女性の印象を揺さぶるこの対談を、実際に読むのは1978年秋のことです。対談を担当した当時の編集者が、その春入社した私の配属先である「婦人公論」の編集長でした。

「婦人公論」では、その頃、当代の人気女優を聞き手にした連載対談を雑誌の“顔”と位置づけていました。その年は、「シラケ女優」と呼ばれた秋吉久美子さんがホステス役を務めていました。私は、夏に行われた中上健次さんとの対談の場に出たりしましたが、秋口に入ったあたりで、編集長に呼ばれて厳命を受けます。「来年から女優対談はお前が担当せよ。ついては昔自分がやった原節子×向坂逸郎対談のように、意外な組合せで、大物同士の対談を仕掛けろ。そして、現場の仕切りを含めて、中味は全部、お前が自分で作れ」と。

 それから80年12月に部を離れるまで2年余、このシリーズを担当しました。大原麗子さん、宝塚を辞めた直後の鳳蘭さん、そして檀ふみさんを数回手がけたところで、後任にバトンを渡します。編集長のお眼鏡にかなうような、意外な大物との組合せを毎月お膳立てするのは大変でした。1回1回が、それだけに印象深い仕事です。

 そんなことを「天声人語」の文章から久々に思い出しました。すると、まさにその夜です。会社の廊下を何気なく歩いていると、『山口瞳対談集』(論創社)という5冊のシリーズ本が本棚に並んでいるのに気がつきました。ハッとして、1冊ずつ目次を眺めていきました。4冊目に、それがありました。「母へのレクイエム」と題する大原麗子さんとの対談です。こわごわページを開いてみます。

 1979年「婦人公論」4月特大号。山口さんが『血族』(文藝春秋)という、自らの出生についての疑問から、亡き母のルーツの謎に迫るという長篇小説を出して間もない時でした。この作品をダシにしながら、山口さんというウルサ型の作家を“天下の美女”に料理してもらおう、というのが編集サイドの狙いでした。

 対談はお互いの病気の話から始まって、『血族』の話に移ります。両親の実家がある横須賀に取材に行って、「山口百恵っていう人は横須賀ですから、親類じゃないかと思ったんですが、違いました」とか、「うちの係累は美男美女」と書いたところが、読んだ人が、「あれはちょっとおかしいんじゃないか? 僕の顔を見ながら言うんですね」と山口さんが笑いを誘います。そこからやがて、山口流の“男の美学”に話が転じます。
 
大原 先生は食べ物屋さんに行っても、残した場合には、まずかったわけじゃないんだと職人さんに言って帰るそうですね。でも、そんなに気を遣ってたら疲れますねえ。
 山口 ヘトヘトになっちゃいますよね。タクシーに乗っていて、メーターが家の前で上がるでしょう。ああ、よかったと思いますよ。
 大原 上がらないと、とてもいやですか。
 山口 出そうで出ない時ってあるじゃないですか。僕の友達に、カチャッと上がると寿命が縮まるというのがいるけれども、僕はああよかったと思いますね。変に気障(きざ)に聞えるかもしれないけど、そうじゃないですね。サービス業の方には何か少しでも、こちらが痛い目に会っても得さしてあげたいという気持がとても強いですね。
 大原 なぜですかね。
 山口 さあ、なぜですかね。……なぜかわからないんですけど、身についちゃっているんですね。それでずいぶん笑われたり、かえって怒られたりして。
 大原 奥様が一緒にお店に入るのがいやだっておっしゃるとか?
 山口 そう、たとえばどこかでちょっと食事しようじゃないかというと、いやだというんです。どうしてかというと、何か僕はおどおどしているっていうんですね。だから、食べた気がしない。もっとお店の人に威張んなきゃいけないって。それ、とてもできないんですよね。……
 大原 たとえば器に髪の毛が入ったりしていても、先生は絶対におっしゃらないでしょう。
 山口 とても言えないな、僕には。黙っていて、その店へ行かなくなるという感じですね。だから、かえって不親切なんですよ。言ってあげたほうがいいかもしれない〉
 
 といった調子です。大した話をしているわけではありませんが、会話のテンポや間の取り方、その場の雰囲気が読者に伝わるように心がけました。新人の仕事の出来としてはいかがでしょう? ただ、こういう趣向の対談も、いまではあまり見なくなりました。

 テレビの対談番組や、ライブのトーク・イベントなどが一般化して、対談も雑誌の専売特許ではなくなりました。それでも「週刊文春」連載の「阿川佐和子のこの人に会いたい」は、話し言葉の面白さを文字で表現して楽しませます。新聞の対談や座談会のように、あるテーマについて論じ合う“議事録”ではなく、肩肘張らない世間話や、当意即妙の言葉の応酬、相手の発言に触発された反発、沈黙、共感、思いつきなどが、こうした企画の妙味です。

 編集長に「対談はお前が作れ」と命じられたように、現場では自然な会話の流れを尊重しつつも、時には微妙に話題を転じたり、脇からホステス役を焚きつけたり、まぜっかえしたりしたものです。そして、話をまとめる際には順序を変えたり、ムダを省いたり、加筆したり、いろいろ工夫を凝らしました。お手本は吉行淳之介さんなど、いわゆる座談の名手たちでした。

 さて、対談は他にもいろいろ手がけましたが、前回取り上げた(No.653)『つかこうへい正伝』(新潮社)の中に、「忘れられない対談」の最たるものが登場しています。つかこうへい×有吉佐和子対談で、同書にはこう紹介されています。
 
〈もうひとつ、直木賞の受賞をきっかけに、公になったものがある。いや、なってしまったと言うべきか。つかの国籍のことである。
 直木賞受賞を受け、『中央公論』四月号で、つかは作家の有吉佐和子と対談している。その中で、有吉は唐突にこう切り出すのだ。

 有吉 もうあなた、賞とったんだから、あの話はしていいんじゃないの? まだいけないの?
 つか 何の話ですか?
 有吉 パスポートの話。
 つか いいですよ。
 有吉 いいでしょう?
 つか ええ。賞とったからということは関係ないけど〉
 
 つかさんを含めた芝居のグループでヨーロッパへ旅しようとした時に、パスポートを見て、彼の国籍が日本でないことを知ったのだと続きます。1982年2月18日に行われ、「中央公論」4月号に「『笑い待ち』の流儀」と題して掲載された対談です。

 つかさんが、在日韓国人2世であることを公の場で認めたのは、これが最初です。「あなたが小学校の時、国語の成績が一だ、二だというのは、お父さんもお母さんも日本語ができなかったせいでしょう」、「それがよくいま、日本語を使って、ナウな子供たちを引きつける芝居を書けてるなと思って」という発言は、有吉さんらしいのかもしれません。ただ、そもそもの企画意図は、次のようなものでした。
 
 
〈直木賞を受賞し、小説のジャンルにもますます意欲を燃やすつか氏。帝劇での『乱舞』が大成功のうちに終幕となった有吉氏。演劇界にあって対照的な両氏が、永年の親交をふまえて大いに語り合った〉
 
 作劇、演出も対照的なら、二人の交友自体が世間的には意外なはずです。「有吉さんと実は親しいんだよ」と教えてくれたのは、つかさんのほうでした。そこで、つかさんの直木賞受賞を機に、二人にざっくばらんな演劇、文学談義をしてもらおうというのが趣旨でした。ところが、直前にちょっとしたハプニングがあり、それが微妙な影を(主としてつかさんに)落としながら、対談がスタートします。
 
有吉 この度はおめでとうございます。
 つか いやいや、どうもありがとうございます。
 有吉 私、授賞式の当日、花束持って行ってあげようかと思ったんだけど、二人だったからね、受賞者が。片方の人に悪いと思って。
 つか 有吉さんは賞をもらったことはないんですよね。
 有吉 ない、直木賞と芥川賞はね。だけど、大きいものもらったからもういいの。
 つか 何でもらえなかったんですか。
 有吉 知らないけど。
 つか ぼく、有吉さんと付き合い始めた時は、てっきり直木賞の選考委員だと思っていたんです。
 有吉 ウソ。バカね。
 つか だから、別にゴマすれと言われてたわけじゃないけど、全然知らなかったもんだから、あけ方の五時ごろ呼びつけられても厭な顔ひとつ見せず……。「佐和子、眠れないの」なんて電話がかかってくるんだものね。睡眠薬飲んでて。
 有吉 私、それ全然覚えてないの。それ聞いて、怖くなって睡眠薬使わなくなった。
 つか 朝の五時ですよ。おれも眠れないんだよ、この電話で、と思って。
 有吉 ほんと?
 つか ほんとですよ。誘惑されかかったんだよ、おれは。
 有吉 アハハハ。
 つか おれが女と付き合いだして、結婚しそうって時になると、電話かけて邪魔するしね。
 有吉 ウソよ。
 つか ほんとじゃないですか。
 有吉 どうして電話かけるの、私が?
 つか どうしてって……。
 有吉 あ、その電話のせいで、まとまる話も成立しなくなった?
 つか もう話がこんがらがってね。「あんた、さっきの女、誰よ」とか言われたわけよ。おれちの電話番号、絶対教えないんだけど、一応有吉さんには教えててさ。まいったよと思ってね。
 有吉 おかしい。(笑)〉
 
 
 この導入部だけでも、かなり波乱含みです。以後はますます熱を帯び、つかさんの国籍の話、演劇論、観客論、小説論、そしてまた国籍論などが展開していきます。この時ばかりは、対談を“作る”というよりも、話された中味を忠実に、この緊迫した臨場感をどう再現するかに注力しました。

 これを誌面化するかどうかをめぐっては、対談後、つかさんと毎晩遅くまで飲みました。酔いを醒ますゆとりもなく、そのまま会社に、印刷所に向かう日々が続きました。

 対談をまとめた校正刷(ゲラ)を前に、つかさんがどういう表情を浮かべていたかは、『つかこうへい正伝』を読んで、初めて知りました。つかさんも、有吉さんも、ゲラの修正個所は一切なし。一字一句手を入れないゲラがそのまま戻ってきました。これも“忘れられない”理由のひとつです。

 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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