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山川方夫『展望台のある島』(慶應義塾大学出版会)

 没後51年目の夭折作家

 山川方夫(まさお)といっても誰なのか知らない人が大多数かもしれません。昨年が没後50年にあたりました。生前、芥川賞候補に4回(5作品)、直木賞候補に1回。受賞には至らなかったものの、都会的で多彩な才能の持ち主として前途を嘱望されていた作家です。
 
〈夭折する人の心というものは、誰もこのように柔軟で、よくしなうものなのだろうか。決して、そうとは限るまい。……
三十代に達して、この人の伸びやかな開花期がきた。そこに、不慮の死が待ち伏せていた〉(永井龍男「柔軟な精神」)
 
 郵便を出しに行った帰り道、東海道本線・二宮駅前の国道1号線の横断歩道で、山川方夫はトラックにはねられました。人事不省のまま、翌日帰らぬ人に――。35歳の誕生日を5日後に控えた1965年2月20日のことです。

 本書は彼の30歳代、いわば“晩年”の作品を集めたアンソロジーです。ごく身近にいた年少の友人であり、彼に勧められて小説を書き始めたという坂上弘氏が、「山川の豊潤なひろがりを伝えたい。生を。死ではない」との願いから、いまなお“最愛の小説家”として心の中に生きている先輩の足跡を改めて世に問いました。
 

 どれも懐かしい作品ばかりです。たまたま私が大学に入った1972年に、山川が得意としていたショート・ショートの作品集『親しい友人たち』が講談社文庫に入りました。74年には自伝的な私小説を中心にした『愛のごとく』が、75年には『海岸公園』が新潮文庫化され、ほどよい間隔で読みつなぐ機会が与えられました。やがて文庫化されていなかった長篇『日々の死』や、エッセイ集『トコという男』を古本屋で求めるようになり、とうとう冬樹社版『山川方夫全集』(全5巻)も手にすることになりました。

 なぜそこまで熱読したのか、といえば、もちろん山川の誠実な作風、「個」を見つめ「生」を希求する透徹した筆致など、作品の魅力が強く心に働きかけたことは言うまでもありません。しかし、そもそものきっかけは、評論家・江藤淳の鮮烈なデビュー作となった『夏目漱石』を書かせた名伯楽として、山川方夫の名前を記憶に刻んだことが大きな理由でした。

 同人誌で、江藤の「マンスフィールド覚書」を読み、当時、編集長を務めていた「三田文学」に、「夏目漱石論」を書くように勧めた“伝説”は劇的そのものでした。いったいどういう人物なのか。山川方夫の実像をしっかりこの目で確かめたいと思ったものです。
 
〈山川と私とは、僅か十年間のつきあいである。昭和三十年の初夏に、私ははじめて当時三田文学の編集長だった山川方夫に逢った。所は銀座の並木通りにあった日本鉱業会館内の「三田文学」の事務所で、私はまだ三田の文科の学生であった。だから、常識的にいえば彼は私の「先輩」――もっとも、三田ではこの「先輩」という言葉をあまりつかわないのであるが――ということになるが、私たちが、そういう年齢の差を意識してつきあったことは一度もなかったような気がする。私は山川編集長に見出されて『夏目漱石』という本を書き、この本によって批評家になった〉(「山川方夫のこと」、『江藤淳著作集 続2 作家の肖像』所収)
 
 
 そして、こう続きます。
 
〈……山川はその前で私が「無私」になり切れる数少い――というよりはほとんど唯一の友人であったとでもいうほかはない。彼は、表面的にはきわめて社交的な男だったが、その実いつもいまにも爆発しそうなさまざまな苦しみをかかえて、懸命に生きていた。その孤独な、孤立無援な耐えかたが私は好きだった。温厚で誰にでもやさしい山川とはちがって、私は癇癪持ちで気が短く、社交嫌いな人間であるが、何か暗い重いものを黙って耐えているという意識を共有してはいたからである。だから、私たちのつきあいは甘えあうつきあいというより、甘えあわぬところにルールがあるような親密さから成立っていたのである〉(同上)
 
 彼の死がいまだに信じ切れない、その感覚にまだ馴れていないという江藤氏が、「山川はいつの間にか、私の内部の存在になってしまっていた」と吐露する喪失感は、痛切きわまりなく響きます。その5年後に書かれた「山川方夫と私」と題する長編エッセイは、それをさらに強く訴えます。最後の一節です。
 
〈山川、君はいわば私にとってひとつの花だった。……誰の眼にもふれずに咲き、沙漠に芳香をただよわせて消えて行く花々を、私はいくつか知っていた。山川、君は疑いもなくそのなかでもっとも鮮烈な花のひとつだった。……
 君がいなくなってからいろいろなことがおこり、私の確信はますます強まらざるを得ない。つまり、生きるにあたいするから生きるのではない。なにものかへの義務のために生きるのだ、という確信が。そのなにものかとは、なんだろう? 山川、それを私に教えてくれないか。今、君こそそれがなんであるかを知っているはずだから〉(前掲書所収)
 
 このエッセイが書かれた29年後、よもやと思われた江藤氏の自死を知らされた時に、この一文がしきりと頭をよぎりました。

 さて本書ですが、第I部には山川方夫らしい掌短篇が8作選ばれています。国語の教科書でもおなじみの「夏の葬列」をはじめ、洗練された文章、洒脱な結構、多彩な趣向の作品が並びます。読んで驚くのは、古さをまったく感じさせない――それどころか現代を予見していたかのような物語のセンスと才気のきらめきです。昨年は、『親しい友人たち――山川方夫ミステリ傑作選』(創元推理文庫)というアンソロジーも出ました。そちらには、E.サイデンステッカー氏の翻訳で「ライフ」のアメリカ国内版「日本特集」に掲載され、その後ソ連、イタリアでも紹介された名作「お守り」も収められています。

 第II部の5篇には、死の1ヵ月後に刊行された『愛のごとく』(新潮社)から3作品が入っています。ジャンルでいえば私小説に属する「最初の秋」と、表題作「展望台のある島」の2作は、1964年5月に結婚し、新居を疎開先だった二宮の家に構えた山川が、同年11月号、翌年2月号の「新潮」に発表した作品です。
 

「山川にとっては、結婚と新生をあらわす一つの塊となるべき連作だった」と坂上さんは解説しています。実際、この2作を「一つの作品として読んで」もらうための改稿に着手する予定でした。しかし、それに取りかかろうとする直前、不慮の事故死に見舞われます。文学的転機がまさに訪れようとしていた矢先、突然、幕が引かれたのです。巻末に付けられた詳細な年譜に、「二作品を一つの作品にするつもりだったが果たさず」とあり、続くのは11行にわたる事故と死去の記述です。

 今回初めて『愛のごとく』の初版本を手にしてみました。本人の希望で、現代美術の旗手、斎藤義重氏が装幀を手がけています。帯には「的確な人生の把握と、鮮潔な抒情と――急逝を惜しまれる作家山川方夫の天賦の才華がきらめく遺作集!」とあります。本の裏に付された帯文を読んで、衝撃を受けました。長くなりますが、そのまま引用します。
 
 
〈山川さん。あなたは悲運な人だった。ほんとうに悲運な作家だった。
 昨秋の米誌「ライフ」を皮切りに、ソ連の「コムソモールスカヤ・プラウダ」、イタリアの「パノラマ」に作品がつぎつぎと紹介されて、日本の文壇はもとより、国際的にも洋々たる前途がひらけたその矢先、あなたは降ったような事故に遭われた。結婚して九ヵ月、34歳の若いあなたが逝かれた。
 愛別離苦。しかし、幽明あい隔つ今は、こういう言葉自体いかにおぞましいことか。死は無量に重いのだ。ことに個性的な作家あなたの死は。
 洗練された美の感覚、透徹した造型の意識――そのあなたの文章が、この先もう新たに書きつがれないということは、何と寂しいことだろう。
 孤独なあなたの、余りに孤独な死を心から悼む〉
 
 担当編集者だったSさんの文章だといいます。敬愛する作家の急逝を前に、編集者が無念の思いをこれほどストレートに帯に綴った例を、寡聞にして、私は他に知りません。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*以下、個人的なことですが、坂上弘さんが心血を注いだ巻末年譜を見ていく中で、1947年、山川方夫17歳のところの記述に目を引きつけられました。
 
〈二宮在住の劇作家、梅田晴夫を母に連れられて訪ねる。
 二宮の梅田邸は、海岸縁りにある山川の家から駅の踏切を渡り、歩いて十五分の山手にあり、嘉巳(よしみ、山川氏の本名、引用者註)は足繁く通い夜遅くまで遊ぶことが多かった。梅田は嘉巳の病弱からくる引込み思案の性格を直そうと、野球をやらせたり、行動を共にする。梅田は嘉巳に大濫読を勧め蔵書を開放した。当時本が手に入らない時代であり、嘉巳は梅田邸からリヤカーで本を運んで来て読む。特に重要な衝撃を受けた作品に「チボー家の人々」「地獄の季節」「赤と黒」「嘔吐」「死者の書」「錯乱の論理」「暗い絵」を挙げる。梅田晴夫の蔵書へ移ってから読むものが、欧州の文学、演劇関係、文芸雑誌、三田文学へとひろがった。ストイックな耽読惑読は毎日続けられ、一方で作品を書きはじめる。
 この年はたかまる文学への関心と自分の躰との関係において、書くこと、文学をやることを選んだ時期でもある。梅田はこのような嘉巳を励まし、小説家か劇作家になるよう勧める〉
 
 山川方夫というペンネームは、父である日本画家・秀峰(しゅうほう)の師にあたる鏑木清方(かぶらききよかた)の「方」と、私淑したこの梅田晴夫の「夫」を取って付けたとあります。山川と梅田氏の交流はこの後も続くのですが、私がこの経緯を初めて知ったのは、数年前に梅田さんの子息(私の20年来の友人)と坂上さんと3人で会食した折です。2人を引き合わせるという目的だったにもかかわらず、私はこの事実をまったく知りませんでした。

 梅田晴夫氏と山川との間にそんなに深い縁があったのか、とひたすら驚きました。そして、戦後間もなくの時期、疎開先として移住した二宮で、宿痾(しゅくあ)を抱え、無口で、内向的だった山川が、年の差(おそらく10歳)を越えたこの交友を通じて、自らの文学に目覚めていく光景を思い描き、たとえようもない慰藉を感じたのです。
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