この方は、聖書とどんなふうに親しんでこられたのだろう――「はじめて読む聖書」特集では、九人の方々に「わたしと聖書」というテーマでエッセイをご寄稿いただきました。きょうは四人の方々のエッセイから、その一部をご紹介します。

山我哲雄さん(聖書学、宗教学)「聖書学という科学」
先にも書いたように(聖書学における)批判的姿勢とは「本当にそうだろうか」と疑ってみるということである。例えば、新約聖書の福音書にはイエスの教えが書かれていると信じられてきたが、福音書は四つもあり、比較検討すると、同じイエスの教えのはずなのにさまざまな違いが発見される。それゆえ現在の聖書学では、福音書はイエスの教えの直接の記録ではなく、伝承に基づき各記者が解釈し想像したイエスの言行を描いたのだという認識が一般的である。

釈徹宗さん(宗教思想、住職)「お坊さんの読む『聖書』」
仏教徒の眼から見ると、四つの福音書などは「カノン」であると同時に、イエスから出された「公案」のように思える。「公案」とは禅において師から弟子へと出す課題である。しかも、知性や理性では応答できないものばかりだ。……『聖書』の中で躍動する宗教的逆説性に満ちた言葉を読むたびに、「公案」を連想してしまう。

山浦玄嗣さん(医師)「ケセン語訳聖書に取り組む」
六十歳になって二千年前の古代ギリシャ語の勉強を始めた。新約聖書は大昔のギリシャ語で書いてある。聖書がわけがわからないのは私が愚かなせいもあろうが、それ以前に翻訳の問題なのではないのかと疑った。自分で原典に当たろうと決心した。……一事が万事、自分で原典を読むということがこんなに多くの発見をもたらすとは思いもよらなかった。ケセン語訳聖書にはそんな私の発見が満ちている。

長谷川集平さん(絵本作家、ミュージシャン)「ベガーズ・バンケットの招待状」
イエス・キリストは宴会好きだった。古代ユダヤで汚れとされた賤業や下層の人を集めては呑み食いするので、後ろ指を指された。……天国はよく宴会にたとえられた。お返しができる人は招くなとイエスは教える。見返りを期待してサービスしてはいけない。あ、そうそう、礼拝のことを英語でサービスという。喫茶店にモーニングサービスと書いてあるのを見て、毎朝礼拝する、なんと信心深い店だろうと感心する外国人がいるという話がぼくは好きだ。

次回は、養老孟司さん、横山貞子さん、松居直さん、望月通陽さん、山形孝夫さんのエッセイをご紹介します。