前回につづいて、「わたしと聖書」というテーマでご寄稿いただいた、五人のみなさんのエッセイの一部をご紹介します。

養老孟司さん(解剖学)「はじめにあったのは言葉か」
論語も聖書も都会人の言葉であろう。キリスト教はローマ、コンスタンチノープル、アレキサンドリアで栄えた。つまり大都市。都市ならたしかに「はじめに言葉がある」。だって人間だらけなんだから。

横山貞子さん(英文学)「言語体験としての聖書」
最初に憶えた聖書の言葉は、「神は愛なり」(ヨハネ第一書四章十六節)。ひとりで壇にのぼり、それだけ言って降りてきた。暗唱というには短すぎるが、三歳児にとって、それは使ったことのない言葉の集まりだった。

松居直さん(出版者、児童文学者)「生きることの意味を気づかせてくれた言葉」
牧師先生のはればれとした表情と気持のこもった声から伝わるみ言葉は、私の心を開き、言葉というものの力をあらためて強く強く感じさせた。言葉が命だ、言葉が人間を照らす光だというその光が、私の心だけでなくからだをも照らし出すように感じ、精神のはげしい動揺を感じた。

望月通陽さん(美術家)「エリヤののど元に」
聖書に画題を頼らないこと。これが絵や彫刻を仕事にした私のいましめ。なにしろこの深遠な蔵には、おびただしい美酒が寝かされている。一行ごとに満々の樽が鬱蒼と横たわり、ひとつを選んで栓をひねれば、酒は難なくほとばしる。渇けばここに来ればよいのだ。しかしそんな、言わば他人の酒で酔う夢は、果して私の夢だと言えるだろうか。

山形孝夫さん(宗教人類学)「悲しみの家から」
おそらく人間には、失うという仕方でしか見出すことのできない大切な何かがある。……私の場合、ことさらにそのように思われるのは、過去の遠い記憶の底に、少年のころに死別した母の記憶が、ひとりだけの内的経験として、澱のように沈んでいるせいかもしれない。