いま世の中にあふれている雑誌のなかでも、『暮しの手帖』は特別な存在です。合理的で新しい生活スタイルの提案、日用品の徹底したテスト、口語体で明晰な文章。モダンなデザイン。そして、広告は入れない。――昭和23年の創刊以来、ユニークな編集方針をつらぬき、最盛期には百万部を超えた戦後の「国民雑誌」。花森安治は、その編集長にしてデザイナー、装釘家、イラストレーター、コピーライター、ジャーナリストとして多方面に才能を発揮した人物です。ほぼ100年前の1911年に生まれ、1978年、亡くなる前日まで編集長の仕事をしつづけました。

中学生だった津野海太郎さんは、母親が押入れにしまっていた創刊当時からの『暮しの手帖』を読み、「ほとんどの雑誌は、めくると灰色にかすれた暗い感じがした。そのなかで『暮しの手帖』だけがちがっていた」――とにかく、視覚的に明るかった、と驚きます。のちに自身が編集者になってあらためて気づいたのは、その文字組みの美しさ。そこで語られる思想と文章のあたらしさ。そして、花森のつくりあげた雑誌のかたちが、程度の差はあれ、日本の編集者やデザイナーの、かなりの割合の人びとの意識につきまとっているはずだ、とかつて自らの経験をふまえて綴っています(『考える人』2006年冬号)。

ちょうど今年の5月に、花森安治と一緒に『暮しの手帖』をはじめた大橋鎭子さんの『「暮しの手帖」とわたし』が刊行されました。敗戦直後の焼け野原の東京で、まだ20代の大橋さんが定職のない花森安治に、雑誌をやりたいと相談をもちかけた日のことが描かれています。「ぼくは母親に孝行できなかったから、君のお母さんへの孝行を、手伝ってあげよう」花森の記憶では、そのとき、彼はこう答えました。
「今度の戦争に、女の人は責任がない。それなのに、ひどい目にあった。ぼくには責任がある。女の人がしあわせで、みんなにあったかい家庭があれば、戦争は起こらなかったと思う。だから、君の仕事にぼくは協力しよう」(『編集会議』2002年10月号「『暮しの手帖』と半世紀」)

ひとりひとりが、自分の頭で考え、選び、自分の暮らしを大切にするようにしたい。雑誌の中で「これはほんとうでしょうか?」と問いかけ、与えられるものをうのみにしないようにテストを繰り返したのは、そのためだったに違いない。誰にも真似できないただ一つの雑誌を作りつづけ、骨太な発言、おかっぱ頭にスカート姿という強烈な個性をもった存在でありつづけた花森安治。彼の生きた時代をたどりながら、やりたかったこと、なしとげたことを描きだす連載です。どうぞお楽しみに。