【考える本棚】
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 土方正志『震災編集者――東北のちいさな出版社〈荒蝦夷(あらえみし)〉
 の5年間』(河出書房新社)
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 困難な時代を生きる「きみ」へ
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『仙台学vol.11 東日本大震災』という特集号があります。発行は2011年4月26日。「あの日」の1ヵ月半後です。出版元は仙台を拠点にした“ふたり出版社”の「荒蝦夷(あらえみし)」。

「なにせ超零細企業である。立ち止まったら、即、倒産である。もう、ダメか……〈3・11〉直後、正直、そう思った夜もあった」――。特集号の製作期間は、実質1ヵ月足らずのはず。先々への不安と恐怖、悲しみと怒りが交錯する被災地から、強い意志をこめて送り届けられた1冊の雑誌。格別の重みを感じました。

 本書はその「荒蝦夷」の創業経営者の一人である著者が、この5年間の体験を綴った震災戦記です。これを読んで初めて、渾身の1冊がどうやって生まれたのかを知りました。瓦礫の中に立たされた、根源的な「怒り」からでした。

 あの日、著者の自宅マンションは全壊します。事務所はなんとか無事だったものの、「本棚は倒れ、デスクトップのパソコンは宙を飛び、資料や書類が散乱して足の踏み場もない」状態です。「ライフラインも通信も途絶。食料不足に燃料不足。余震もしつこく続く」という明日をも知れぬ絶望的状況。

 もう一人の編集者、共同経営者の実家も全壊しました。初代アルバイトの女性は、宮城県気仙沼市の実家と連絡が取れず、家族の安否が気がかりでした。「お父さんは海の仕事。最悪の事態が予想」されました。

〈一週間目に家族と連絡が取れたのだが、お父さんは行方不明。家族は混乱の気仙沼への彼女の帰郷を止めた。更に一週間。遺体が発見された。ガソリンを掻き集めて、彼女とともに気仙沼へと向かった。柩を運び、遺体と対面した。ともに酒を酌み交わした人の、亡くなって二週間目の遺体に手を合わせながら、猛然と腹が立った。本を出そうと思った〉

 これ以上の説明は不要でしょう。「猛然と腹が立った。本を出そうと思った」――遺体と対面し、やり場のない怒りがこみ上げるとともに、きっと同じような思いを味わっている人が、あちらにも、こちらにも、大勢いるに違いないと、直観的に諒解したのだと思います。溢れんばかりだった感情が、堰を切ったのだと思います。

「震災を通じて、考えたこと、感じたこと」を書いてほしい、と東北にゆかりのある執筆者たちに原稿依頼を始めます。締切まで10日ほど。それにもかかわらず、次々と渾身の、入魂の原稿が届きます。

〈鎮魂、慟哭、憤怒、焦燥。文章から立ち上る思いはそれぞれだが、すべて東北に生まれ、東北に生き、東北に縁ある書き手の生々しい肉声である。〈3・11〉以来、みなさんが東北人として胸に溜めていた思いの爆発があった。被災地から送り出すべき「ことば」が、あった。ずっしりとした重みを確かにこの手に感じた〉

 ちょうどその頃、私は東京で「われわれの先人たちはあの時どうしていたのだろう」と考えていました(No.238「1923年の先人たち」参照)。大正12年9月1日、関東大震災直後の在京出版人のことです。当時の中央公論社編集主幹、嶋中雄作の言葉は、それまでにも何度か読んでいました。「われわれは雑誌記者だ。雑誌記者はいかなるときでも、その職場を捨てるべきでない」「雑誌がいつ出るかは別として、さっそくプランを相談しよう」――震災の翌日、発言したといわれます(中央公論社『中央公論社の八十年』、1965年)。

 そして、「寄稿を依頼するのは、まだ早すぎるから、口述筆記で行こう。作家や評論家をたずねて、一人一人の震災の印象を話してもらって、なるべく生のままで筆記するのだ」と言い、芥川龍之介、室生犀星、久保田万太郎、佐藤春夫、菊池寛、評論家では長谷川如是閑、吉野作造、大山郁夫、安部磯雄らのところを、すぐさま歴訪するのです。

 芥川龍之介は語っています。「江戸時代からの文化は、いまだに東京の庶民のあいだに多く保存されていたが、それが烏有に帰したのが何よりも残念だ。その復旧はとうてい望まれないだろう」

 同年1月に、「文藝春秋」を創刊したばかりの菊池寛は、すっかり意気消沈していました。「君、もう東京の文化はおしまいだよ。これからの文化機関は、大阪にうつるだろう。僕も近く大阪に移転しようと思っている。そのほかは何も考えておらんよ」――。

 そんなことを今回つらつら思い出したのも、著者が震災の直撃をこれでもかというほどに受けながら、地元出版人としての自覚に促され、徐々に決意を固めていく過程が如実に描かれているからに他なりません。

〈これだけの大災害である。すべての市民が、職業人が、影響を蒙っている。もちろん、地元の出版界とて同様だ。著者や書店、そして読者。それぞれが今回の大震災で痛手を受けた。だからこそ、出さなければならない。伝えなければならない、発信しなければならない。著者も、読者も、編集者も、書店も、声を上げなければならない。原稿を書き、本を編み、本を売り、本を読んでもらわなければならない。五年後、一〇年後のために、再生のために。これはおそらくは東北で本に関わる職業人みなの思いだ。……原点に還ろう。そう、思う〉

 2000年、仙台で「荒蝦夷」を拠点にした活動を始めるまで、著者は東京でフリーライター・編集者をしていました。大きなテーマとしていたのが、災害報道です。1990年に噴火が始まった長崎県雲仙普賢岳、1993年の北海道南西沖地震の際の奥尻島、1995年の阪神・淡路大震災、2000年の三宅島噴火、北海道有珠山噴火などを取材し、記事は1993年の雲仙普賢岳ルポに始まって、8年間に長短43本を書いたといいます。

「災害取材」の熟練ライターが、今度は「被災者」の立場にまわり、かつて何度も目撃した「壊滅」の光景のただ中に、自分が佇みます。かつてたくさん耳にした被災者の声に、眼前の被災地から聞こえてくる声が、あるいは自分がまさに発しようとする言葉が、重なり合うような場面が訪れます。そうした衝撃を、また「復興」と言われる5年間の実感を、手探りしながら真率に書き留めたのが本書です。

 折々に書かれた文章を時系列的に編集し直した構成で、著者の揺らぐ心情がそのまま記されているのが貴重です。そして、変化を象徴するひとつの印象的な物語として、先述した初代アルバイト女性のその後が描かれます。

 著者は気仙沼にある彼女の実家に、かつて立ち寄る機会がありました。父親は、船舶の通信機器の整備をしている技術者でした。世界中の海で勇躍する気仙沼の漁師たちとともに旅をする、彼もまた「豪快で陽気な」海の男でした。その夜はにぎやかに痛飲し、以後も時折、酒を酌み交わします。その彼が、津波に呑まれます。

〈遺体が確認されたのは気仙沼があの津波に襲われてから二週間後だった。高台にあってなんとか無事だったあの「オチャケ」を酌み交わした彼の家で、柩を担がせてもらった。遺体と対面させてもらった。 (中略)あの日の彼は五四歳、今や私は五〇歳。家族の悲しみはもちろん、年ごろの娘ふたりを残して津波にさらわれた彼の、その無念が胸に響いて離れない〉

 遺体を前に突き上げた怒りが著者に火をつけます。その娘が、父の死後に本を書きます。『地震のはなしを聞きに行く 父はなぜ死んだのか』(文・須藤文音/絵・下河原幸恵)という児童書です。編集を著者たちが手伝います。

 やがて彼女は結婚します。本書の中ほどに「気仙沼の結婚式」とあるのが、その祝宴の模様です。新郎とは高校の同級生。26歳の新郎も、祖母と幼い姪が犠牲になっていました。参列者の多くが、家族か、親族か、友人か、同僚の誰かを失い、〈被災〉を日常として生きてきた人たちです。

〈……新婦の父の名がマイクを通して語られることはこの日、遂になかった。だが、語られぬその事実こそが、死者もまたここに生きているのをなおさら思わせてくれた。みなの脳裏にあの遺影の笑顔が、いまここに誰よりもいたかったはずのひとりの男の笑顔が常にあった。笑顔の向こうに自分の知るあの人やこの人を思い浮かべて、彼が、そしてみなに縁あるすべての死者がここにいた〉

 そして翌年3月10日、この若夫婦に男の子が生まれます。著者は、生きていれば初孫を抱き上げたはずのその人と「オチャケ」を酌み交わした気仙沼の家を訪ねます。赤ん坊は湊の人、湊人と名づけられた男の子。津波の日から、4年が経ちます。

〈きみが大人になったころ、被災地は、東北はどうなっているだろうか。港は町は、そして海は山は平和におだやかになっているだろうか。いま、僕がこれを書いているのは四年目の三月だ。二三万人もの避難生活者がいる。どこもかしこも復興の途中で、とてつもなく広い工事現場が海に沿って六〇〇キロも続いている。原発も大変だ。ここできみはどんな景色を見ることになるのだろう〉

 湊人君に語りかける希望にことよせて、著者は自分自身に言い聞かせます。地域に根ざした出版人としての責務です。困難な時代、困難な場所に生まれた「きみ」にこそ、「壊滅」以前、この地でどのような生活が営まれ、どのような歴史が受け継がれてきたのか、その記憶を記録として伝えていかなければならない――それこそが、地方に生きる出版人の仕事ではないか、という覚悟です。

〈消したくとも消せない各々の記憶をこそ丹念に記録しなければならない。そこから生活や歴史が見えてくる。それを破壊した災害の素顔が見えてくる。時間はかかる。だが、来たるべき時代のための記憶の記録、これこそが地域の出版社の仕事なのではないか〉

 最近しばしば話題にのぼる震災怪談があります。タクシードライバーが乗せて対話した女性客の幽霊など。柳田国男『遠野物語』の99話――明治29年の津波に呑まれた妻の幽霊に夫が再会する話――の平成版のような霊現象が、そこかしこで呼び覚まされているのが、この土地柄です。

〈人間関係の作法から食文化、その土地ならではの信仰などなど、被災地は地域文化の総体を手に〈被災〉に向き合わざるをえない。防災・減災、瞬間を生き延びる知恵、生活再建、慰霊と鎮魂。さまざまな局面で東北人は意識的にであれ無意識的のうちにであれ、土地の文化の記憶を呼び覚まし、それを手がかりに生き延びている〉

 巻末に掲げられた「荒蝦夷――2011年3月11日以降の刊行物」のリストを見ると、その迫力に圧倒されます。個人的な生活の困難や、健康上のトラブル、小出版社を切り盛りすることの苦悩など、一切本書で触れなかった矜持をこめて、著者は次のように述べています。

〈書けなかった、あるいは書きたくなかったことを書けるようになるにはもうちょっと時間が要るようだ。町も人も、おそらく復興とはこのような道程なのだ。肉体的にも精神的にも、あるいは経済的にも、昨日はダメだったが今日はなんとかなりそうだ、今月は絶望したがきっと来月はちょっとマシになるはずだ、そうやって紆余曲折、日々を行ったり来たりしながらゆるゆると生活を取り戻していくしかない。復興の公式など、正しい復興など、どこにもない。そこにはただ善かりかるべき明日を幻視する試行錯誤のみがあり、その日々はこれからも続く。絶望はしない〉

 この気概に、勇気を与えられているのはわれわれです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)