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阿部菜穂子『チェリー・イングラム――日本の桜を救ったイギリス人』(岩波書店)

 桜が結びつけた日英の縁

 各地から桜の便りが届き始めています。本書はそういう季節にふさわしい1冊であるとともに、日本人に桜との関係について再考を促すきっかけともなりそうです。著者の「あとがき」から紹介いたしましょう。
 
〈恥ずかしい話だが、日本に四〇〇種類もの里桜があることや、それらが桜守たちの決死の努力で生き残ってきたこと、また太平洋大戦中、「桜イデオロギー」の下で日本軍が香港で行ったことについて、私は少しも知らなかった。
 日本の桜の魅力にとりつかれた稀有なイギリス人、コリングウッド・イングラムと出会い、その足跡をたどることで、日英で起きた桜の劇的なドラマと歴史を垣間見ることができた。それは私にとって「祖国再発見」の旅でもあった〉
 
 おそらくおおかたの読者も同じだろうと思います。私自身、米国ポトマック河畔の桜並木は知っていましたが、イギリスにも日本の桜がたくさん植樹され、3月末から5月半ばにかけて微妙に時期をずらせながら、「じつにさまざまな品種の桜」が色とりどりの花を咲かせるという事実をまったく知りませんでした。

 ポトマックの桜については、1912年、当時の東京市長・尾崎行雄が、日露戦争の講和に尽力したアメリカ政府への感謝の意をこめて、3000本を超す日本の桜を贈ったことが知られています。一方、イギリスに日本の桜を熱心に紹介したのは、イギリス人園芸家、コリングウッド・イングラムでした。ある庭園関係者は、「イギリスのジャパニーズ・チェリーは、イングラムひとりの努力でここまで普及した」と語っているほどです。園芸大国イギリスと日本を結ぶ“桜大使”のような役割を果たした人は、いったいどのような人物だったのでしょう。本書はその足跡をたどります。

 驚くのは、彼の恵まれた家庭環境です。1880年(明治13年)、「新興富裕層」の三男として生まれたイングラムは、病弱だったため、ロンドンから少し離れた風光明媚な別荘地で転地療養を兼ねて育ちます。「学校にはいっさい行かず、自宅で家庭教師について勉強したのみで、大学教育を受けることも」ありませんでした。しかし、生きものや植物相が豊かな自然環境は、願ってもない学習の場となりました。まるでドリトル先生の世界のようでした。
 
 
 
〈両親はともに鳥や動物を好み、父ウィリアムは鳥類保護にも熱心で、別荘に大きな鳥小屋をつくって……いた。母のメアリーは「オリの中に閉じ込めておくのはかわいそうだわ」と言い、夫のいないあいだに鳥たちを室内に放し、ディナーテーブルで餌をやったり、自分のナイトガウンのそでに入れて眠らせたりした。また、メアリーはたいへんな犬好きでもあり、とくに日本産の愛玩犬「狆(ちん)」を愛し、一度に三五匹も飼っていたことがある。
「まるで動物園みたいな家だ」――多数の鳥や犬と暮らすイングラム家を見て、街の住人たちはこうささやき合った。一家は「ちょっと風変わりな資産家の家庭」として地元では名が知られていた〉
 
 やがてイングラムは、21歳で初めて訪れた日本に魅せられます。日記を読むと、彼の目に映った当時の日本は、まだ渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)の名残りをとどめています。5年後、新婚旅行先に日本を選んだのも、この時の思い出――人と自然が調和した美しい景観と、笑いさざめく女性たちに象徴される人なつこい人々――が深く印象に刻まれていたからに他なりません。
 

 元は鳥類研究者だったイングラムですが、ある時から「日本の桜の専門家」をめざします。広大な自邸(ザ・グレンジ)の庭を桜園としてデザインし、100種を超える品種を揃えます。そして、これ以上イギリスで入手できる桜はないと分かった時に、1926年、3度目の訪日を決意します。「桜行脚」のためでした。

 さて、ここからが本書の読みどころなのですが、この間、1923年9月1日に関東大震災が起きます。復興に向けて都市の風景は一変しました。「東洋の街並みは消滅し、その同じ場所に超西洋的なおそろしく巨大で醜いビルが建ち並んでいる」――。目に飛び込んできた風景の衝撃に加えて、彼を失望させたことがもう一つありました。
 
〈近代化による商業主義の波が、数々の美しい桜を愛でる心を日本人から奪ってしまったようだ。人々がいまでも桜を熱愛していることは事実だが、多様な桜への関心はすでに失われている。あふれるほど多様な品種があった時代は過ぎ去った。島国日本が、長期間にわたって平和と繁栄を享受し、芸術と伝統美を追求した徳川時代は、もはや過去のものとなったのだ〉(1926年4月2日、イングラムの日記)
 
 多様な桜を愛でる伝統が薄れていく現状に憂慮が記されます。一方で、多くの「里桜」(山に自生する「山桜」に対して、人里で栽培されて咲くサクラ。その数は400以上とされる)を守ろうとする献身的な「桜守」との出会いもありました。終生、イングラムに大きな影響を与えた、桜の名士との対面です。
 
 
 
〈ミスター・フナツの案内で私は荒川堤の桜並木を見た。彼はまるで、愛情深い親がわが子の自慢話をするように、一本一本の桜について、その美しさや値打ちを語ってくれた。フナツ氏の瞳は桜への情愛できらきらと輝いており、私を幸せな気持ちにした。彼は、赤ん坊を抱いた母親が子を見つめるときのような優しいまなざしを桜に注いでいた〉
 
 通訳をはさんでの会話ですが、桜への愛が両者を固く結びつけます。そして、この時の出会いが、日本で絶滅したと思われる品種の“太白(タイハク)”を祖国に里帰りさせることにつながります。

 イングラムは、この滞在中に印象的なスピーチを残しています。日本の桜について「率直な印象と意見を語ってほしい」という依頼を受け、彼は日本人に対する重大な警告を発しています。
 
〈最後に私は、一般にはあまり人気のない多品種の桜について、ひとこと申し上げたい。日本が西洋民族の喧噪に侵され、美的感覚を失うはるか前の時代に、あなた方日本人は細心の注意と骨身を惜しまぬ努力によって、驚くべき数の桜の品種を開発しました。ところが近年は、これら多品種の桜を改良しようという努力がいっさいなされていないばかりか、多くは深刻な絶滅の危機にあります。……あなた方の祖先があれほど手厚い愛情をもってつくり上げた桜のほとんどは、五〇年後には永久に失われてしまうと申し上げても、過言ではないでしょう〉
 
〈イギリスの私の庭園には、私が日本では見かけなかった少なくとも二品種の美しい桜があります。これらを日本の土にお返しすることができれば、私の最も誇らしい業績になると同時に、私の庭が美しい日本の桜を植えて生まれたことに対する恩返しができようというものです。私はできる限りの品種を収集したいのです。そのために日本の友人たちからいただいている惜しみないご支援に対し、心よりお礼を申し上げたいと思います〉
 
 日本に里帰りさせたいと述べた「少なくとも二品種の美しい桜」とは、“太白”と“大黒(ダイコク)”でした。“大黒”のその後の消息は不明ですが、“太白”については、やがて「執念の里帰り」が実現します。
 

 帰国したイングラムは、日本各地から取り寄せた品種を手元で大切に育て、新種を栽培することにも余念がありませんでした。彼を経由して、桜はイギリス国内のみならず、世界に向けて広がっていきます。イングラムの桜の園は有名になり、地元の住民たちはいつしか彼を「チェリー・イングラム(桜のイングラム)」と呼ぶようになります。
 

 かたや日本では、イングラムが危惧したように、珍しい品種への関心が薄れ、“染井吉野”が日本中を席巻していく過程が始まります。「染井吉野は成長が早く、条件がよければ五年ほどで見栄えのよいサイズに成長する。ヤマザクラなら一〇年はかかる。また染井吉野は接木の成功率が高く、たいへん経済的であった。新時代の景観づくりを急ぐ明治政府には格好な桜であった」という時代の流れが加速されました。
 
〈江戸時代の桜の名所では、ヤマザクラを種子から育てて植樹するのがふつうだったため、一本一本が個性をもっていた。また、開花時期も少しずつずれていたため、一本が散れば次が咲くという具合に、花の時期は長く続いていた。
 ところが、クローンの染井吉野に変わってからは、すべての樹がみな同じ姿かたちになったうえ、咲く時期、散る時期もみな同じになり、大量の桜がいっせいに花をつけていっせいに散るという光景をつくったのである〉
 
 ここから話はもう一つの物語へと発展します。すなわち、「ぱっと咲いてぱっと散る」染井吉野に基づいた軍国主義の桜イメージの形成、そしてその「桜イデオロギー」がイングラム一家に、また戦後の日英関係に影を落としていく様子が描かれます。詳しくは本書をお読みいただくとして、イングラム家の三男アレスターの妻ダフニーのことに少し触れておきたいと思います。

 彼女は看護婦として1940年、香港の軍事病院に赴任しました。1941年12月、そこへ進駐してきたのが日本軍でした。捕虜となり、終戦で解放されるまで、3年8ヵ月を収容所で過ごします。1947年、アレスターとロンドンで結婚。やがて一家はイングラムの屋敷の裏手に住み、イングラム夫妻と親密な交流が始まります。
 
〈しかし、ダフニーは心の奥深くに、深い闇を抱えていた。それは大戦中に日本軍の捕虜となったことが原因だった。ダフニーは捕虜時代の体験を戦後、何十年ものあいだ、家族のだれにも話さず、自分ひとりの胸の中にしまっていた。しかし彼女の苦しみは、一九六〇年代以降にイギリスで人気を集めた日本製の車や電気製品の購入をいっさい拒絶し、日本関係のものからは目をそむけるという姿勢に表れていた。
 ダフニーは植物が好きで、農場の一角に好きな花や花木を植えてガーデニングを楽しんでいた。そんな義理の娘にイングラムはザ・グレンジの庭園にあった野生のシクラメンやギンバイカ(銀梅花)、ゴジアオイ(午時葵)などたくさんの花を分け与えた。
 しかし彼女は、義父の愛した日本の桜の苗だけは、決して受け取らなかった〉
 
 彼女が初めて重い口を開いたのは、93歳の時です。ジャーナリストの取材に応じる形で、香港での体験を語ったのです。捕虜問題は、戦後の日英関係のトゲとなり、長く尾を引きました。過酷な体験をした元捕虜たちは、イギリスに引き揚げた後も、日本に対する激しい憎悪、反撥心を抱き続けました。くすぶっていた対日批判がまさに頂点に達したのは、1995年、「対日戦勝50周年」を迎えた時でした。ところが、その2年前、偶然にも桜が不思議な縁を取り持ちます。

 桜に魅せられた若い世代の「桜狂」が、かつてのイングラムのように、イギリスに何人か現われていました。そのうちの一人が着目し、北海道から取り寄せようとしたのが、新種の「松前桜」でした。それは、「日本人の大戦中の行為にいつか償いをしたい」と願っていた北海道の桜守の手によって開発されたものでした。

「ぎくしゃくしている日英関係の改善のために役立ててほしい」――58種類の松前桜はイギリスに無償で贈られます。運命の巡りあわせというべきか、捕虜問題の和解促進に、桜が思わぬ貢献をしたのです。
 

 こうして寄贈された松前桜は、いまやイギリス各地で多彩な色の花を咲かせているそうです。イングラムは1981年に100歳6ヵ月で大往生を遂げました。ザ・グレンジも売却されました。いったんは衰退した庭園ですが、ほどなく修復され、イングラムの遺産は文化財として大切に保存されています。その旧イングラム邸に、2000年3月、40種類の松前桜が移植されました。イギリスのジャパニーズ・チェリーのメッカは、いまなお日英の架け橋として健在です。

 桜を愛した人たちの、激動の時代を生き抜いた魂の交流が胸に迫ります。


 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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