二〇一五年半ば、得難い体験をした。六十四歳でバリバリの文系・政治学専攻の私が、およそ分野的には程遠い理系・数学専攻の研究現場に迷い込んだのだ。おっと迷い込んだは正確な言い方ではない。「ジャーナリスト・イン・レジデンス」というプログラムに、手をあげて参加したのである。一〇年度から、数学と社会とのコミュニケーションを深める目的で、日本数学会がバックについて、全国の大学の数学科・研究室のどこかに木戸御免のはからいを受け、数学に興味のある〝ジャーナリスト〟が自由気ままに歩き回って取材するという、ユニークな仕組みだ。これまでは、新聞記者、編集者、ライター、テレビディレクターなど文字通りジャーナリズムの世界に身を置く人が延べ三十人以上この機会を利用したときく。

 そんなプログラムの案内が私の元に届いたのは一四年秋のこと。京都大学大学院理学研究科教授の藤原耕二先生からのお誘いであった。パンフレットに添えられた藤原先生の手紙には、「先生にご連絡いたしましたのは、『知の格闘』(ちくま新書)を拝読しまして、オーラル・ヒストリーという学問分野があることをはじめて知り、サイエンスの分野でも大きな可能性があるのではと感じたからです」と、連帯のメッセージが書かれていた。これを受けずに何としよう。私はすぐに藤原先生にメールをして準備を始めた。

 でも数学だ、大丈夫かしらと思う。そもそも数学は理系の中でも、最も苦手な分野だ。還暦に至るまでは時折、あてられて黒板の前に引き出され数学の問題を解こうとするのだが、まったく出来ないまま茫然と立ちつくす夢を見た。冷汗ものである。いや実は、高校時代の数学の教師は、授業中に私の解法に目を留め、「およそ数学的センスのない答案!」と宣うたのだった。そんなトラウマがありながらも蛮勇を振ったのには訳がある。数学ではなく〝数学者〟の生態に興味があったからだ。数学の学者としての実存的意味を、藤原先生の言う我がオーラル・ヒストリー(パーソナル・ヒストリーの口頭取材)を通して明らかに出来たら、それこそ面白い結果がえられるのではないか、好奇心のなせるワザである。

 かくて六月八日から十一日までの四日間朝から夕方まで私は藤原先生を案内人に、京大の数学教室と数理解析研究所の、十二名のシニアの先生方を始め、助教、院生、学部生とも話をするチャンスを得た。時間に換算して二十時間強、数学漬けならぬ数学者漬けとなった。オーラル・ヒストリーの王道を行く取材方法で、各先生方の研究室を訪れ、数学者としての人生について様々な角度から質問をし、ノートに筆記した。それは四十頁に及ぶ詳細な記録になった。

 数学のコンテンツには一切踏み込まぬわけだから、周辺取材に止まるのはやむを得ない。しかし、私も四十年間大学人としてすごして来たから、各数学者の話を違和感なくむしろ共感をもって聞くことができた。

 何よりうれしくも頼もしくもあったのは、若い世代の代表格たる助教たちの生意気さと元気の良さであった。

 二十代から三十代にかけての若い彼等が、年長世代は数学の世界ではもう先が見えており、自分たちこそがこれから数学研究の沃土を開くのだと自信に満ちた顔つきを見せ、目をかがやかせた時、これぞ今の大学に稀有な存在だと感心した。もっとも、出来る奴は出来る、ソコソコはソコソコといった数学者たちの他者を見る眼は、世代をこえていっしょだ。能力差があってあたりまえで、そこから数年に一度出るか出ないかのエリートが養成されていく。だから大学大衆化、大学院定員増加の波は、否応もなく京大数学科に苦悩と苦労を生ぜしめる。

 すなわち数学はもはや学者としての将来へ向けての一本道ではすまず、複数の選択肢を持たせねばならぬということ。上澄みだけを相手に、いわゆる伸び盛りだけを伸ばす教育ではとても学内コンセンサスが得られぬのだ。これはシビアな現実だ。しかもポストドクターでテニュア(終身在職権)付きの就職が決まるまでの年齢がどんどん上がり、四十代になっても大変というのだ。たとえよいポストに早くつけたとしても事務や雑務に忙殺され、研究の時間がなかなかとれぬという。本末転倒であるが、これは私の専門領域においても今や深刻な事態である。

 数学者は一般に若いうちが花かという質問に対しては、多くの数学者が肯定し、皆その栄光の波がもう一回来るかどうか、日夜研究に勤しんでいるという。数学は自分一人で考え抜く学問かと思ったら、意外にも数学者同士のコミュニケーションが必要かつ重要である。紙にエンピツ、黒板に白ボクをもって一人で立ち向かう姿は数学の一面に過ぎない。最初に問題のヒントを得る時、そして数年間とり組んでなおモヤモヤしている時、思考のプロセスを見せる他の数学者の講義を聴くのは効果があるのだ。それは日本人もさることながら外国人の発想に刺激を受けることが多い。数学専攻者が若いうちから短期留学、短期海外滞在をくり返すのは、そのためなのだ。完成された論文には論理の展開はあっても、人の発想のヒントに連なるものはない。それこそ板書やエンピツ書きを媒介としたフェイス・トゥ・フェイス・コミュニケーションが大事なのだ。

 こんな話を聞いているうちに数学者の世界がとても身近に感じられるようになった。元より数学は大学という研究機関を離れては存在しえぬ。そうであるが故に、今はほかの学問分野との共同研究、一般社会への啓蒙教育と、なかなか大変な事態を迎えている。しかし私はこの四日間の数学者との体験を、今度は「大学論」というより広い視野に位置づけていきたいと願っている。

(「考える人」2016年冬号掲載)