今回は、特集のなかの「わたしのドリトル先生」のエッセイから、その一部をご紹介しましょう。

山極寿一さん(京都大学大学院理学研究科教授)『ゴリラの言葉を学ぶ』

「人間にはない動物たちの知恵や能力を使って、ドリトル先生はさまざまな苦難を乗り越え、問題を解決する。それを苦もなくやり遂げる先生の何ともほのぼのとした風情と冒険心に、子どもの私は不思議な魅力を感じた。動物たちといっしょに暮らし、彼らに助けられて人間にはできないことを成し遂げるってすばらしい。今にして思えば、それが私をアフリカのジャングルへ向かわせ、ゴリラの研究に没頭させる牽引力になったのかもしれない」

長谷川眞理子さん(総合研究大学院大学教授)『いつか世界の果てに』

「ドリトル先生は博物学者で、高名な先生だということだが、物語の中には、実際の研究にかかわる話は、具体的には出てこない。……それでも、ドリトル先生には、研究と学問の匂いがした。それは、先生の物腰と、本で一杯の書斎の描写からくるのだろうか。私は、その雰囲気にあこがれた」

西江雅之さん(言語学・文化人類学者)『「役立たず」への憧れ』

「ターザンやモーグリは、動物とコミュニケーションをとる場合、もっぱら口から出る音声“ことば”に頼って行っている。しかしドリトル先生の動物たちとのコミュニケーションでは、声のみではなくて、身体の各部を使っての動作や、その場の空間・時間、等々を同時に使い分けて行っていることに気付かせてくれた」

養老孟司さん(東京大学医学部名誉教授)『動物と言葉』

「私の頭にあるのは犬猫で、どちらも歴史的に長い時間にわたってヒトと共生しているのに、言葉を解さない。なぜか、それが不思議で仕方がなかった。言葉を使うのは意識で、ヒトの意識の特質はなにか。それが『同じ』という機能だと考えるようになって、はじめてこの話題が理解できたような気がした」

遠藤秀紀さん(東京大学総合研究博物館教授)『凍りついたドリトル』

「いまヒトと動物の関係を理知をもって受け止め、そこに表現の戦を挑む物書きは、それが児童文学の範疇にあろうがなかろうが、かのパドルビーの過ぎた平等主義者の日常を、新しい登場人物の人生のリアリティにおいて凌駕することを義務づけられる」

石山修武さん(建築家。早稲田大学理工学術院教授)『ドリトル先生動物園倶楽部』

「猫の白足袋を事務局にしてドリトル先生動物園倶楽部を作ろう。更にその先に動物園建築も、動物庭園も作ってみよう。人間達ばかりで集まるから不都合も起り、イヤな想いもする。動物達も交えて、しかもあんまりしょっちゅう顔を突き合わせないですむ集りを作ってみよう。集りの規準は簡単だ。ドリトル先生の知り合いである事、それだけ」

奥本大三郎さん(大阪芸術大学教授、「ファーブル昆虫館」館長)『ムーン・モス』


「後のほうの巻を読むと、最初の一、二巻とは感じが違う。最初のは恐ろしいアフリカ人に追われたりして、ドタバタ喜劇的な、子供でも喜んで読める小説なのに、後のほうの巻は、空想科学・ユートピア・ファンタジーとでも言いたくなる。そして、作者ロフティングがファーブルやダーウィンをちゃんと読んでこれを書いていることがよく分かる」