なぜ私が沖縄で戦争体験の聞き取りをしていたのか。今回は自己紹介から始めたい。沖縄と私との関係を開示するためにも、必要な前置きだと思うからである。

 もとは京都で社会学者なんぞを志していたが、1996年に大学院へ入院して以来、迷走に迷走を続けていた。見かねた学部時代の師匠・佐藤卓己先生がリハビリを意図したのか、ジョージ・L・モッセというユダヤ系アメリカ人の歴史学者の著書を翻訳しないかと誘ってくださった。第一次大戦で史上かつてない規模の戦死者を出したヨーロッパ各国が、どのように戦争をとらえ、戦没者を祀ろうとしたか。さまざまな事例が広く紹介され、とても面白く読み、2002年に『英霊』と題して柏書房から出版された。

 表紙に写真を2枚載せた。見返しに短く説明するにとどめたが、戦没者の追悼について、「ドイツは戦争の罪を反省したのに、日本は」という定説への疑問を示したつもりである。1枚は師匠のドイツ出張の「お土産」で、ミュンヘン郊外の教会に掲げられた巨大な銘鈑の写真。「戦死者を弔わない者に生きる価値はない」と仰々しいドイツ文字で彫られている。第一次大戦の敗戦後1923年に建立され、第二次大戦後、1952年に再建されたらしい。

 そして、もう1枚は、当時のニュースで話題になった石川護国神社の境内にある「大東亜聖戦大碑」。先の大戦を美化した碑文だ、いや自国の戦死者を祀って何が悪い、石川県の碑に勝手に沖縄戦のひめゆり部隊の名まで彫り込んでけしからん、など喧々諤々の論争を招いた。

 今にして思えば、初めて単行本になった本の表紙が護国神社の境内だったことは奇妙な縁だ。というのは、現在、私は沖縄の護国神社の宮司と結婚しているからである。

 少し話を戻す。『英霊』を翻訳して戦没者祭祀に興味をもち、日本版の「英霊」研究をしようと壮大な研究テーマで10ページの申請書類を埋め、日本学術振興会特別研究員(通称ガクシン)というものに応募した。就職できない若手研究者にとって垂涎の身分である。採用面接の最後、好意的な笑顔の審査員から「日本のジョン・ダワーになってください」と超大物の名前をあげて激励され、急に恥ずかしくなって目を泳がせた。

 

 だが、研究者としては敗北を抱きしめたと言わざるを得ない。あいかわらず研究とやらは迷走したが、まがりなりにも研究者であるアリバイ証明のため、年に2本は論文を書かねばならない。とりあえず日本で戦没者追悼といえば沖縄だ、と思い立って沖縄に飛んだ。あちこち巡り、資料をコピーし、人から話も聞いて、最後に訪れたのが護国神社だった。 沖縄の護国神社は内地とは少し違う。どういった経緯なのか、手っ取り早く関係者に尋ねよう。夕方の境内をうろついていると、お宮を閉める当番の神主が通りかかった。聞けば、アメリカ占領期に護国神社を復興した夫婦の長男だという。これはいい、と話を聞いた。

 沖縄に渡ったのは2008年の春だが、その1年ほど前から個人的にいろいろあった。 決定的なのは、大好きだった祖母の死かもしれない。102歳の大往生だった。祖父はその62年前、台湾で病死している。ドイツ留学もした病理学者で、国策に沿った研究を次々と手掛けて評価され、研究者すごろくの「あがり」も目前だった。1945年5月、すでに沖縄で地上戦が展開されていることも、心酔していたナチのドイツが降伏したことも知らず、妻に「お前は子や孫に囲まれて90や100まで生きろ」と何度も言ったそうだ。祖母の葬儀では大勢の孫や曾孫も泣いていて、祖母はきっと祖父より幸せな人生だったろうと思った。 その葬儀からの帰り道、ガクシンの受入教官だったS先生が自ら命を断たれたと知った。愕然とした。若くして評価され、次々と著作を出し、いつも豪快に笑って自信に満ちあふれて見えたのに。ただただ、ショックだった。

(左から)筆者の祖母、伯母、祖父。

 何のために、何をして生きるのか。そんなアンパンマンの歌みたいなことばかり考えるようになった。生き残りたい。でも、ここで? 何をして? 

「ほとほと疲れました」。遅い夏休みを取って沖縄へ行き、2年前の神主を呼び出して告解を聞いてもらった。3か月後、「では、こちらへ来ればいい」と言われ、アカデミック戦線から逃げ出して南に潜伏することを決めた。それが沖縄へ来た経緯である。

つづく