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 三月最終の日曜日から、夏時間になった。長雨の続いたヴェネツィアの商人たちは、張り切っている。本島に住んで働く人は少なく、大半が大陸側に家を持つ。十一月から三月までは、本島から大陸への連絡船の最終便は夕方六時半である。日暮れとともに早々に店を閉め、氷雨に打たれながら「今日も売れなかった」と、帰路につく。この五ヶ月間の闇をどう乗り切るかが、腕の見せどころである。店や工房のたいていは賃貸で、観光客が流れる通りとヴェネツィア本島と地元民たちの通勤路にはなかなか空きが出ない。安いから、とひと筋外れた路地に店を構えると、猫すら通らない一帯もあれば冠水のたびに床上浸水するところもある。

 「店を閉めてから、ちょっと散歩に行きませんか」

 四月になる直前、通いの食堂でぼんやり座っていると、店長がそう声をかけた。他県からヴェネツィアに働きに来た青年は、雇われ店長ながら責任感が強く働き者で、開店してからまだ間もないのにすでに地元の贔屓客がついて繁盛している。

 零時を回った町は、深閑としている。日のあるうちは店を目印に道順を覚えるが、閉まってしまうといっさいが闇に沈んで見分けがつかない。若い店長は、両手をポケットに入れてフードを深々とかぶり、早足で行く。夜の足取り次第で、ヴェネツィアへの馴染みの度合いが知れる。

 右へ左へを繰り返しながら青年はときどき立ち止まっては建物を見上げ、周囲を確認するように見渡してはまた歩き始める。しばらくして行き止まりの角地で立ち止まると、

 「ここからサンマルコ広場まで、二分なんです」

 角を曲がると小さな太鼓橋があり、それを越えるとヴェネツィアの核であるサンマルコ広場へと出るのだと言った。

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 その角地の店はよく知られるファッションブランドで、昨春に開業したばかりである。

 「この区画で、若者向けに服を売ってもねえ」

 ヴェネツィアの観光客は、一泊数十万円をものともしない層から日帰り手弁当の近隣圏の人たちまで幅広い。ブティックの狙う客層は、サンマルコ広場まで来てTシャツは買わないだろう。しかし商圏の一等地に出店するのは、何より顔見せが目的である。世界の特等商店街に店を構えたことを通行人に披露する。

 「夏時間が終わり人出が減れば、ショーウインドウの役目もおしまい」

 食堂の常連の一人から、そのブティックが賃貸契約期限の切れる前に店舗を手放したがっているらしい、と耳打ちされた。ヴェネツィアの要の商品は、利権である。

 「大家が不動産業者に託す前に、直接当たりをつけておこうと思って」

 青年が店長を務める食堂は、地元の人たちにはよく知られるようになった。見晴らしのよい場所に広々とした店を構えることができたのは、観光客の動線から外れた区画にあるからだった。開業して数年。地元の住民に名が知れて、経営者はいざ表舞台へ出ていこうと虎視眈々らしい。青年は、その意向を汲んで広場に近い物件をしらみつぶしに当たっているのである。

 明るいうちは人の目があるし、食堂も回さなければならない。店を閉めたあと、皆が寝静まる頃を待ち、これという物件を丹念に見回っているのだという。

 冠水に弱い場所であろうがなかろうが、サンマルコ広場の周辺の利権は尋常ではない高値である。そもそも広い物件が少ない。間口がひとドア、二十平米前後、トイレ共有、倉庫なし、がたいていだ。建築物に関する新しい規制は、頻繁に発令される。消防法から衛生法まで、新規の条例ごとに店舗は役所通いや改築を余儀なくされる。条例の読み解きは素人には難しく、都度、公認会計士や弁護士に頼ることとなり、届出書類ごとに証書や収入印紙が必要だ。商業物件の大家は賃貸料に加えて、規制に見合う改築は店子がするように、と条件出しすることも多い。契約書には記載されることのない、机の下の折衝である。

 場所を確認した青年は、満足げで歩みを緩めて広場へ向かう。

 観光客も鳩も消えたサンマルコ広場の真ん中で立ち止まると、

 「二百万ユーロ(約二億六千万円)でどうか、と言われましてね」

 彼は、すでに不動産業者も大家も抜きでブティックの借主である店主と話を始めているのだった。規制に合わせて店子が受け持った改築費用、この先まだ残っている契約期間内に払い込むべき賃貸料、せっかく手に入れた商権を契約終了前に<譲ってやる>ことへの心づけ、などの総額である。法的に大家が手にすることになる契約破棄への違約金も潤沢に組み込まれているのだろう。

 地面の少ないこの町で地に足がついた暮らしをするには、ヴェネツィア特有の世知が必要だ。ヴェネツィアでは広場のことをカンポ(campo)、「畑」と呼ぶ。皆が集まるアゴラ(古代ギリシャ語)と同義でピアッツァ(piazza)と呼ばれる広場は、サンマルコだけである。そこでの商権を手に入れることは、世界の玄関で客を出迎える利得に繋がる。

 未明の広場の真ん中で、闇に光るヴェネツィアの目を感じて、ぐるりと取り巻く回廊と窓を見やる。

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