「沖縄に行ってこい。沖縄からは日本が見える」

 昭和30年頃、日本研究のためウィーンから東京へ来た青年が「日本が見えない」と悩んでいた時、柳田國男が助言したという。そこで彼は加計呂麻(かけろま)島へ行って何かを悟って帰ってきた、と沖縄学の外間守善(ほかましゅぜん)が書いている。なお、加計呂麻は『魚雷艇学生』島尾敏雄が震洋特攻隊の指揮官として赴任した奄美の島。「沖縄」なのかは少々疑問だ、と小声で付け加えたい。

 

 確かに、「日本から見る沖縄」は「沖縄から見る沖縄」とは違う。「日本から見る沖縄」は、日本と中国とアメリカに翻弄されてきた。それも事実ではある。

 思い起こせば、初めて沖縄に来た私も「加害者の末裔」意識でそっと上陸した。大学3年になる1994年の春休み。2泊3日の船で大江健三郎の『沖縄ノート』を読んだのがいけなかった。一人で初めて南の島を旅する冒険心と期待に、罪悪感と後ろめたさがべったり上塗りされた。

 正直に言うと、内容はほとんど理解できなかった。だが、理解できないことこそ罪の証明に思えた。歴史に無知で無関心だった学生ごときには理解できない、理解したいと願うことすら傲慢なほどの傷を負わされた地なのだ、と思った。

 レンタル自転車であちこち走り、たくさんの人に親切にされた。「うちにおいで」「車で送ろう」と言う人が次々と現れ、予定の食費が半分残ったほど初対面の人たちにご馳走された。沖縄本島南部の喜屋武(きゃん)岬は、戦争末期に大勢の民間人が身を投げた断崖として知られる。手を合わせに行こうと畑の道を自転車で走ると、畑の中のおじさんに手招きされ「これ食べたことある? 持っていき」ともぎたてのトウモロコシをぐいぐいリュックに詰められたりもした。

 でも、終戦から50年もたたない沖縄には、今より多くの「戦後」が残って見えた。首里の路地裏の小さなプレハブ食堂で、優しいおばちゃんが美味しいものをいろいろ味見させてくれながら、ごく自然な話の流れから、幼くして沖縄戦で家族全員を失って南部をさまよった話をしたりする。打ちのめされた。

 人は優しく、すべて美しい。でも、面白いこと楽しいことに出会うほど、後ろめたさは募る。旅を終える頃には沖縄が大好きになったが、無邪気に好きだとはもう言えない。帰りの船に乗った時、二度と来られないだろうと思った。そして実際、「研究」の大義名分を得るまで10年以上、来ることはできなかった。

 

 それから14年後、縁あって沖縄が本籍地となった。生粋の沖縄人と暮らし、音楽を聞くと自動的に踊りだす「沖縄の子」たちを育て、地元に馴染むうち、「沖縄から見た沖縄」が見えてきた。沖縄は、どっこい生きている。

 戦争で日本の捨て石にされ、米軍に蹂躙され、戦後は基地を押し付けられた、という。しかし、奇妙なことに沖縄の人の多くはアメリカが大好きだ。戦後しばらくは基地の米兵による事件や犯罪も多かったが、豊かで強いアメリカを眩しく見上げてきた憧れは沖縄に深く根付いている。

 ではアメリカが好きで日本は嫌いなのかというと、そうでもない。「沖縄から見た日本」すなわち「内地」は全部が新宿のような大都会だと思われているふしもあるが、こちらにも強い憧れがあるらしい。なんでも内地製が「上等」で、目鼻立ちの涼しい「内地顔」は人気で、「白いねぇ。内地の人?」は容姿への最高の賛辞だ。政治や歴史の問題を除けば、「沖縄から見た日本」は今も憧れの本土である。

 だが、「沖縄から見た沖縄」もひとつではない。2年前、普天間基地から徒歩圏の宜野湾(ぎのわん)市内へ引っ越してみると、「那覇から見た沖縄」と「宜野湾から見た沖縄」はずいぶん違うと気づいた。地理的には20キロも離れていないのに、那覇生まれの夫は、まるで違う文化で別の国にいるようだと言う。

 例えば米軍基地のこと。沖縄の中心である那覇の住人にとって、実は米軍基地は感覚的に遠い。基地問題の語り口はメディアの受け売りで、いくぶん他人事になる。一方、普天間や嘉手納がある沖縄中部では米軍基地は「隣人の居住区」だ。

 娘の通う幼稚園の副担任は米軍人の奥さんが多く、ミニ遠足は基地内のボウリング場や先生の自宅。何かとボランティアに来る屈強なお兄さんたちは働き者で、ハロウィンやフリマなど基地開放イベントは大人気。この町で育った中年以下の人にとって基地は楽しい思い出と結びつく。休日の公園やラーメン屋にも、子供の同級生にも、普通に基地住民がいる。給料のいい米軍基地は憧れの就職先で、専門の予備校もある。生活や意識は、那覇とはまるで違ってくる。

 沖縄には「いちゃりばちょーでー」という言葉がある。「一度出逢ったら皆兄弟」の意味で、人との縁を大切にする考え方だ。一度出逢った人すら兄弟のようなものなら、沖縄戦から70年以上もすぐ近くにいるアメリカはそれ以上にならないわけがない。「ちゃんぷる=混ぜこぜ」な文化が生まれるわけである。

 勝田さんの店が出すタコスという食べ物も、沖縄のちゃんぷる文化の代表だ。米軍基地と地元住民と移住者とが、同じ町で共存してきた象徴でもある。

チャーリー多幸寿のチャーリーセット
 

 さらに、勝田さんから話を聞くうち、「奄美から見た沖縄」の姿にも気づいた。これまでに知っていた「沖縄」ともまた違う面だった。

 奄美から見れば、沖縄は南の大国である。かつて中世には何度も侵攻してきて、ついに奄美を併合し、150年の苛烈な支配を敷いた。戦時中はともに「南西諸島の防空拠点」となり敗戦とともに米軍支配下にあったが、昭和28年に奄美以北だけ本土復帰するや、沖縄に住む奄美出身者は理不尽な差別を受けた。数年前にも普天間基地の移設先の「本土」として徳之島が候補にあげられたが、沖縄から奄美へのまなざしの一例と私には見えた。

 知れば知るほど、「沖縄」は複雑な多面体に見えてくる。だからこそ今なら私も、「沖縄が好きだ」と断言してもいいのではないかと思い始めている。

 この連載は、「那覇の護国神社の神主と結婚して宜野湾に住む京都人」の私が「奄美出身で沖縄戦を戦い、コザで米兵向けのレストランを営んだ勝田さん」を通じて見た「沖縄」である。そのごく小さな針の穴から、ピンホールカメラのように「沖縄の歴史」や「日本」までが鮮やかに写れば、と願っている。

 

つづく