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石内都と、写真の旅へ

 石内はフリーダの遺品を「Mother’s」や「ひろしま」と同様に、自然光を利用して撮る。35㎜のカラーネガフィルムを詰めたニコンF3、手持ちというスタイルも同じだ。

 「今まで通り普通に撮ると決めていた。フリーダはとても著名なアーティストだけれど、残されたモノの悲しみという点では、無名の女性たちが残した<ひろしま>の遺品と同じ。遺品たちは何も語らないけれど、かつて服を着た人がたしかに生きていたことを感じていた。フリーダの遺品にも同じ気持ちで向き合いたかった」

 撮影する石内を、小谷のカメラが静かに追っている。

 キュレーターのシルセが見守る中、博物館スタッフが広げた衣装をしばらく見つめ、「これはどういうふうに着るの」と尋ねたあと、鮮やかな絹のスカートのギャザーを寄せ、ヒモを調節し、ふんわりと置く。すると、みるみる服が呼吸をし始めるようだった。白い手袋をはめて衣装を扱う石内の手は優しく、ほら、あなたが着ていたように、すてきな服になったでしょうとフリーダに語りかけているようだ。

 石内は多摩美術大学で織を学んでいたこともあり「経糸(たていと)を整経し、緯糸(よこいと)を織ると布ができ、裁断して縫うと衣服になっていくということを、私は身をもって知っている。衣服に対する考え方ははっきりしている」と語っているが、彼女の手で調えられた民族衣装はこれまで数多く撮られてきた「物」としてのフリーダの衣装とはまったく異なり、フリーダの身体の丸み、体温さえも感じられるのだ。

 「身体的なコンプレックスを抱えていたフリーダは、自分をどう見せるか考え抜いていたでしょう。服は身を守ったり飾ったりするだけではなく、身を補うものでもあるのね。民族衣装は不自由な足を隠してくれた。髪を小さくまとめ、鮮やかな色彩の裾が広がるドレスをまとうと、身体全体が三角形になって小柄な彼女を大きく見せていたでしょう」

 ドレスは彼女の身体に合わせて補修し、靴下には丁寧につくろった跡がある。それはフリーダ自身が針を運んだものだと思われる。またハンカチなどに彼女らしい刺繍を施しているものもあった。

 「フリーダの遺品の中には裁縫道具もあったのよ。私は彼女がつくろったドレスや靴下をフリーダの皮膚のようにも感じた。それは私が女性たちの傷を撮ったシリーズ<INNOCENCE>のテーマにも通じるのかもしれない。服をつくろうという行為は、ある意味では"傷"を受け入れ、なお生きてゆくという彼女の姿勢を思わせるし、さまざまな記憶が宿った大量の衣服は彼女が生きてきた証でもあったのでしょう」と石内は言う。

 こんなエピソードがある。フリーダが右足の切断手術を受けたあとにブルーハウスを訪ねた女友だちが、乱れた服装で車椅子に座り、うつろな表情でキャンバスに向っていた彼女を見て驚いた。ベッドに連れて行き「きれいにしましょうか」と声をかけると、フリーダはこう答えたという。「愛情のこもった服を持ってきて」と。

 石内は「メキシコで実際に彼女の絵画作品を見て、それまで持っていたイメージが変わった。きつい絵だと思っていたけれど、実物はすごく柔らかくて優しい。丁寧な筆遣いだった。大半が小品なのもベッドに横たわって描けるサイズだったからなのね。まじめに生きることを考え、描きつづけた人だと実感したわ。スキャンダラスな恋愛が語られてきたけれど、聡明な彼女にとって、才能豊かな男たちは広い世界を知るための情報源でもあったと私は思っている。子どものころから生きる時間は限られていると悟っていた彼女は、それでも世界を知りたかった。それも絵を描くためだったと思う」。フリーダ作品はメキシコ民衆芸術の影響が濃いと指摘されているが、彼女のもとを訪れる海外の芸術家を通して欧米の前衛美術の動きをよく認識していたことが作品からもうかがえる。

 フリーダの遺品のなかでもたびたび撮影されてきたのが石膏のコルセットだ。いくつかあるコルセットには穴が開けられ、ペインティングされ、飾りも付けられていて、一つひとつがオブジェのようだ。

石内都「Frida by Ishiuchi#4」©Ishiuchi Miyako

  石内は石膏や皮革のコルセットを太陽の光の中で撮影する。背景にブルーハウスの壁の色が淡く映え、開けられた穴をメキシコの風が通り抜けていく。コルセットはフリーダがベッドに横たわった人生を象徴するものではあるけれど、彼女の精神は誰よりも自由で軽やかだった、石内の写真がそう語っている。

 フリーダ没後五十年を機に封印を解かれたバスルーム内の遺品には、歯磨き粉、スキンクリーム、それから大量の鎮痛剤の薬瓶やモルヒネのアンプル、包帯、ワセリンなどがあった。ワセリンは床ずれで痛むフリーダの皮膚に塗られたのだ。小谷のカメラがとらえた薬瓶などを優しく手にとる石内のしぐさは、フリーダの痛みにそっと寄り添っているようだ。

 それらは苦しみに満ちたフリーダの生活そのものを感じさせる。彼女が身体的精神的な痛みを絵の重要なモチーフにしたのは、描くことが現実的な痛みから逃れる手段であったからなのかもしれない。フリーダは自身の痛苦を正面から見据えることで、自分を愛おしみ、さらに生きていく糧としたのではないだろうか。二十数回ともいわれる手術に耐えたのも、生きる希望を手放さなかったからだ。石内はこう語る。

 「バスルームに残された遺品は、彼女の日常を感じさせる品々だった。まさしく満身創痍で生きていたフリーダは、日常そのものがものすごく大変だったと思う。毎日をどう生きるかという問題をふくめて常に死を身近に感じていた。そのことがよくわかったわ」

 さらに使いかけのマニキュア、香水…。石内はそれらの品々を撮影していったが、ただひとつ撮影が許されなかったのは、入れ歯だった。

 「フリーダ・カーロ博物館館長に、入れ歯はきっとフリーダが嫌がるという理由で撮影を断られたけれど、私は彼女の日常生活を撮りたかったから入れ歯もあっていいと思った。華やかな彼女は、フリーダ・カーロの一部でしかないから。滞在中、フリーダの甥と会うことができたのね。フリーダによく会ったのは五、六歳の時のことらしいけれど、彼の面倒をみていたお手伝いさんが自由に出歩きたい時にフリーダ伯母さんの家に彼を預けていた。フリーダは甥をとてもかわいがっていたのよ。その甥が一番記憶しているのが、フリーダの強い体臭だと言うのね。コルセットに固められ横たわっていた彼女は、シャワーを浴びることもままならなかっただろうし、傷が膿むこともあったでしょう。強い体臭はそのせいね。フリーダは高価な香水を使っていて彼女に会った人はその香りをよく記憶している。けれど香水は体臭を消すためだったのね。フリーダの日常を知る甥が忘れられずにいた臭いの記憶はとても現実的だった」

 遺品のなかには左右かかとの高さが違う靴が多数残されていた。どれも特製のもので、飾りも付いた凝ったデザインだ。

 「靴はどれも美しい。かかとの高さの違いはフリーダにとって大きな意味があったのよ。不自由な足であっても、この靴を履いて立ち、歩き、周囲の人たちに強い印象を与えるフリーダになった。どれもすばらしいデザインだけれど、彼女にとってはおしゃれという意味以上の、生きるための根源的な意味があったと思ったから靴はすべて撮ったわ」

 とくにきわだつのが右足の義足だ。真っ赤な皮革のブーツを履く義足には中国風の鳳凰と龍の刺繍がほどこされ、鈴が付いている。

 切断手術を受けたフリーダは、医師から勧められた義足を拒み歩行練習も嫌がった。しばらくしてブーツの義足を作らせると、歩行練習を始め、三カ月後には短い距離を歩けるようになった。フリーダはこの義足がお気に入りで「私の喜びを踊るつもり」と言い、ある日、友人の前でテワナドレスをまとって陽気な「ハラベ・タパティオ」(メキシコ伝統舞踊)を踊ってみせた。鈴がチリンチリンと鳴っただろう。フリーダは「このすばらしい足! ほんとに役に立つのよ!」と言ったという。

 赤いブーツの義足を、石内は木洩れ日の中で撮っている。白い光はまるで雲のようで、空の中で赤いブーツが踊っているようだ。

石内都「Frida by Ishiuchi#36」©Ishiuchi Miyako

 「フリーダの遺品だけれど、私は"過去"を撮ったのではなく、ブルーハウスでフリーダと私が出会った"今"を撮った。赤いブーツが踊っているように見えるのは、私がそう感じたから」(つづく

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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