寒の戻りがあったり、夏日になったり。五月の空模様を睨みながら、冬服をクリーニングに出すのを待っている。
 大風の吹いた後、大陸の山岳部には雪まで降った。干潟の向こうに、白く縁取りした尾根が連なっている。湿気を吸い上げた吹き下ろしの風が、路地を走り抜けていく。耳たぶを凍らせて、バールに飛び込んだ。

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 防水の分厚い上着姿の男たちが、カウンター前で雑談している。ごま塩頭に、重油でも染み込ませたような黒々とした顔。深い皺が目元や口端に刻まれている。
 腹回りにたっぷり肉のついた男がしきりに何か喋り、カウンターに並んだ男たちは茶々を入れながら笑っている。単語を二つ三つ繋げただけの、掛け声のような会話が続く。耳をそばだてるものの、内容はほとんど聞き取れない。かろうじて耳に残るのは彼らが繰り返し言う、<トラモンターナ>くらいだ。
 男たちは漁師である。船員もいる。荷揚げ業者もいる。皆、この離れ小島で生まれて育ち海を介して暮らしている。
 ヴェネツィアに限らず、港にある食堂やバールには待ち受け顔の男たちが集まる。彼らが待っているのは、風である。季節ごとに風の向きは変わり、海の男たちの行く末を決める。波の立たない海がいいかというと、そうとは限らない。順風満帆のことばどおり、待っていた風が吹き始め海が色めき立つ瞬間が訪れる。それを逃さず、男たちは波に乗って大海へ出ていくのである。
 トラモンターナは、北から吹き込む季節風の呼称である。イタリア半島南部にあった海洋国アマルフィの船乗りたちが、世界で初めて羅針盤を作り広めた。アマルフィの海の男たちは、羅針盤に方位を季節風の名前で記した。以降、東西南北を風の名前で指すようになったとされる。季節の移り変わりを風に聴く。海が季節を連れてくる。
 トラモンターナが吹き終わると春なのに、今年は季節外れのシロッコ(アフリカからの風。南を言う)が吹いたり、この初夏に北風が舞い戻ったりと乱れている。
 「これじゃあ、今後の方向がわかりゃしねえなあ」
 海の男たちに混じって、不景気で不穏な毎日を季節外れの風に掛けて言った男がいる。たまたまカウンターに相並んだ見知らぬ顔である。
 潮灼け顔はその余所者に一瞥をくれたが素通りし、再び自分たちの雑談に戻っていく。
 宙に浮いたおのれのことばを前に余所者の男はバツの悪そうな顔をして、そそくさと店から出ていった。

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 「昼過ぎに網を引き上げるから、見に来るか?」
 若い漁師の隣でコーヒーを飲んでいた老人が出し抜けに、私に尋ねた。来る日も来る日も同じ時間にその店で顔を合わせ、目が合えば黙礼、合わなければ店を出ていくときに店内へ空(から)の挨拶を繰り返し、ようやく今日、この誘いである。
 老人は、皺の中に目も鼻も埋もれている。この小島に唯一残った漁師一族の頭である。彼らはこの干潟でしか獲れない魚介類を稚魚のうちに捕らえては、手元に集め置いて育てあげている。代々、一帯の潮と浅瀬、深みを知り尽くしている。毎朝カウンターに海の男たちが並ぶのは、この網元からその日の海の様子を聞きたいからである。
 「四、五日待てば、食いごろだ」
 親方が嗄れ声で言う。近海の小ガニのことである。冬半ばから初夏までの間にあっという間に孵り、瞬く間に消えていく。親方たちはごく生まれたてを捕り集め、売れどきに育つまで囲い込む。食べごろは、成長の途中で脱皮する瞬間である。甲殻がまだ薄い表膜のうちに、溶いた生卵に蒸留酒少々、下ろしニンニクとパセリのみじん切りを加え、そこへ生きたままの小ガニを放り込む。味が沁みわたったところを見計らって粉を叩き、さっとオリーブオイルで揚げ熱々で丸ごと食べる。
 「美味いぞ」
 皺の奥で、目が<来いよ>と念を押している。

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 組んであった予定をすべて帳消しにして、網元たちに会いに行く。小さな島である。漁師たちの作業場は、毎日の散歩道の途中にある。幅狭の運河が島を横割りに貫いている。小型のモーターボートが横付けすると、腹回りのある漁師が大きなプラスチック容器を陸揚げしている。相当の目方なのだろう。体格がよく若い漁師ですら、半腰になって満身の力で容器を持ち上げている。
 ザワリ、サワリ。
 近づくと、容器の中には無数の灰色の小ガニが蠢いている。河岸に並んだ容器は、一つずつ網元の前に運ばれる。股の間に容器を挟むように座ると、間髪を容れず向かい側に同じような年恰好の男が座った。向き合った老漁師二人は、黙々と一匹ずつ小ガニを手にとっては脇に置いた二、三個のプラスチック容器へ投げ込んでいく。大きく育ち過ぎてしまったものは、価格が半減する。かち割ってフライパンに放り込み、オイルとニンニクとトマトで炒めてパスタに絡めて食べる。
 網元からオイ、と短く声を掛けられて、若者は陸揚げ作業をいったん休止し小ぶりのボウルを持ってきた。
 ザワリ、サワリ。
 網元は山盛りに小ガニを入れたボウルを若者に手渡しながら、二言三言、強い訛りで何か言った。
 「今晩、フランコのところへ行って食うといい」
 小島の南端に工房を構える船大工のことである。
 小ガニに連れられて、小島の端から端へ。

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