現代人は渓谷美に飽き飽きしたか

 スペクタクルさんぽの次なる行き先は、神奈川県のユーシン渓谷である。
 丹沢湖畔の玄倉(くろくら)集落から徒歩で川を遡っていくと、ものすごいエメラルドブルーの渓谷が見られるらしい。それを見に行きたい。
 さっそくネットでユーシン渓谷を調べてみると、すぐに青く透明な水がたたえられた小さなダムの写真が出てきた。
「おお!」
 思わず声が出たのである。
 見た瞬間に、海の色だ、と思った。
 目が覚めるような海の色。
 一般に川の上流はたいていどこも透明度が高いけれども、岩や土の関係か、水はブルーというよりはグリーンに見えることのほうが多い。だが、なぜかユーシン渓谷は、川とは思えないぐらい真っ青だった。
 こんな場所が東京のすぐそばにあったとは、まったく知らなかった。知らないどころか信じられなかった。検索で出てくる写真はどれも画像をいじっているのではないかとさえ思えた。東京近郊でこの色は場違い過ぎる。
 さらに驚いたことには、そこへは一般車の入れない車道を1時間だか2時間だか歩くだけで行けるらしい。途中に照明のないトンネルがあるから、懐中電灯が必要だとも書いてあったが、困難といえばそれぐらいだ。
 私はなんだか片付かない気持ちだった。そんなに簡単に行けるのなら、有名な場所なのかもしれない。きっと単に私が知らなかっただけなのだ。私は自分で思っているほど東京近郊を知らないのではないか。本当は東京のまわりには、ものすごいスペクタクルが満ち満ちているのではないか。
 
 そんなわけで今回も編集のシラカワ氏、カメラマンのスガノ氏とともに、ユーシン渓谷に出かけることにした。
 集合場所は小田急線の新松田である。東京都心から離れていく電車だったが車内は混んでいた。気持ちとしては、反対側の通勤電車を横目に見ながら、のんびり郊外へ向かう優越感を楽しみたかったのに、とくに優越していなかった。
 サラリーマンを辞めて20年になるが、通勤電車への怨嗟の念は心に深く刻まれており、満員の電車と反対方向に乗るのは今も至上の歓びである。と同時に、そこに乗っているサラリーマンやOL諸氏の苦難を思うと、みんな会社行くのやめてこっちに乗ればいいのにと同情を禁じ得ない。ただ本当にみんながこっちに乗ると、今度はこっちが混むから困る。今日はこっちに来てもらう余裕はなかった。

 新松田に着き、スガノ氏運転の車に乗せてもらって玄倉川を目指す。
 3、40分も走ると丹沢湖が見えてきた。玄倉の集落から川に沿ってさらに奥の駐車場まで入り、そこから林道を歩きはじめた。
 この日は初夏の陽気で空も明るく、山にはさまざまな広葉樹が芽吹いて、モコモコとぬいぐるみのようであった。新緑の山。1年で一番歩きたくなる季節だ。
 歩きはじめたのがちょうど午前10時、通勤のサラリーマンたちと同じタイミングで家を出たのに、この時間にもうこんな山の中にいるのは、ふしぎな気分だった。都会のほうばかり向いて暮らしていると、こんな大自然がすぐそばにあることを忘れてしまう。われわれは都心に出るのと同程度の時間でこんな場所に来られるのである。

都会から1時間でこの景色!


 林道は舗装されており、下からは渓谷を流れる川の音が聞こえていた。のぞきこんでみると川面まではかなり遠く、川がどんな色をしているのかはわからない。
 歩きながら、昔、山の同好会に入って沢登りをやっていたときのことを思い出した。当時多くの沢に入ったが、水がエメラルドブルーと呼べるほどの沢にはほとんど出会わなかった。さっきも触れたように、どんなに美しい沢でも水はなんとなく緑がかっているものだ。あれはいったい何の色なのだろう。
 水そのものに何か植物プランクトンのような緑成分がとけこんでいるのか、それとも川底の砂礫の色などが反映されているのか。
 実をいうと、この水の色が青か緑かという問題は、ずっと前から気になっていた。とくに海。当初海というものは南へいくほど青くなっていくものだと思い、それは海底の砂が白いことと関係があると考えていた。海底が黒いと青が濁って見えるという理屈だ。白砂はたいていサンゴが砕けたものだから、熱帯地方で海が青くなるのは筋が通っていた。青と緑の違いは底の色が白いかどうかで決まるのだと私は結論づけた。
 ところが、同じ南の海でも、タイに行ったら水が緑がかっていたからわからなくなった。さらに海底など見えない深い海が青いのも、よく考えると辻褄が合わない。海底の白さは関係ないのだ。結局やはり植物プランクトンのような水中成分のせいなのか。いまだに答えは出ていない。

釣り人もちらほら。このあたりはまだ水は透明。


 ひとつめのトンネルを通り抜けたときだったろうか、今まではるか下方にあった川がぐんと近づいて、木々の間に川面が見えるようになった。川はブルーではなく無色透明だった。広い川原を覆い尽くす岩はどれも白く、川全体がどこか粉っぽく見えた。それは私の、白砂の海=エメラルドブルー仮説を裏付ける証拠のようにも思えるが、はたしてどうだろうか。
 しばらく歩いていくと、ネットで紹介されていた昼間でも内部は真っ暗闇という長いトンネルがあり、ヘッドランプを灯して通り抜けた。今日は太陽も出ているしトンネルの両端は開いているのだから、いくら長いとはいえ少しぐらいは明るいんじゃないかと思ったが、絶対的に真っ暗だった。中でS字にカーブしているのだった。

新青崩隧道(しんあおざれずいどう)の中は前後左右がわからなくなるほど真っ暗。懐中電灯やヘッドランプは必携。


 真っ暗闇のトンネルを抜け、さらに歩きながら、私は先日読んだ本のことを考えていた。
 実はその本に書いてあったことが、ずっと気になっているのである。
 それは雑誌「旅」の編集長だった岡田喜秋による『日本の秘境』という紀行文で、木曾の谷について、次のようにいうのだ。

「日本では渓谷美がしばしば讃えられたが、耶馬溪ももう古い。東京付近では長瀞も現代人の眼にはおどろきをあたえなくなった。人々の視野はひろがり、これらは箱庭的風景だと見抜いた。今や渓谷といえば黒部である。黒部以上のスケールの風景に接しなければ満足しなくなった。木曾の谷でも、寝覚ノ床がそうだ。ここも古典的渓谷風景になりすぎた。人は中央本線に乗っても、話題にすらしなくなった」

 名だたる渓谷がクソミソである。
 おどろくのは、これが書かれたのは昭和35年の「旅」8月号というから、私が生まれるよりも前なのだ。今から半世紀以上昔の話である。その時代から、人々は黒部以下の渓谷美には飽きていたらしい。
 頭が混乱する。
「ユーシン渓谷? うわ、だっさ。こんなんでおどろきの景色だって、ウケるーwww」と岡田氏は言っている。言ってないかもしれないけど、言ったも同然である。もはやユーシン渓谷に行ってもしょうがない気がするではないか。まったくユーシン渓谷がなんぼのものであろうか。
 しかし私は思うのだ。
 では、黒部峡谷なら無条件にオッケーなのかと。
 たしかに谷は深く、水量も豊富で、何もかも日本最高レベルにダイナミックなのだろう。
 だが、今やわれわれはヒマラヤ山脈にだって出かけていく時代である。世界の渓谷は黒部の比ではない。
 それでも黒部以上のスケールの風景であればオッケーと言えるのか。
 それとも50年の時を経た今であれば、ヒマラヤ以外にはおどろきはないと岡田氏は言うのだろうか。
 いったいどこまで行けば満足が得られるのか。われわれは身近におどろくものが何もない時代に生まれてしまったのか。
 これは、私がこのスペクタクルさんぽをはじめる発端となった悩みに近い。渓谷美において、もう黒部以外ではおどろけなくなることと、私が昭和っぽい路地や変な看板なんかに飽きたのと、スケールの違いはあるがよく似ている。
 風景にあっと言わされたい。しみじみした風景で満足したくない。それは最終的にヒマラヤまで行かないと達成できない願いなのだろうか。
 んんん、そんな大問題を提起したつもりはなかったんだが、突き詰めればそういうことであった。突き詰めないほうがよさそうであった。

人は透明な水を見たがるもの

 ゆるやかな山道をしばらく行き、渓谷の幅もだいぶ狭くなってきたところで前方に小さなダムが見えてきた。ひょっとしたらあれかなと思い、通り過ぎたところでのぞきこむと果たしてそうだった。
 そこにはエメラルドブルーの水面が広がっていた。

 

「うわああ、青い!」
 思わず叫んだ私だ。
 後でシラカワ氏に「ほんとにうれしそうな声あげてましたね」と言われたぐらい、そのぐらい感動した。
 インターネットで見て知っていたわけだから、おどろいたというと違うかもしれない。ただ、その存在感に圧倒された。こんな場所にこんな色が、という鮮烈さ。まわりを無視すれば、まさに熱帯の海かと思えた。
 水面近くまで下りられる場所がなかったので、さらに上を目指して歩く。
 青く見えるのはある程度水深がある場所だけなので淵を探した。
 またいくつかのトンネルを抜け、ところどころ水辺に下りられる場所を見つけたものの、さきのダムのようにたっぷりと青が溜まっている場所がなかなかない。ユーシン渓谷がそれほど有名にならないのは、青い区間が短いせいかもしれない。それでもやがてわれわれは、一ヶ所ぐっと青くなった小さな滝壺を発見した。
 水辺に下り、持参した防水デジカメで水中写真を撮ってみる。

撮影・宮田珠己


 素晴らしい透明度だ。ただちょっとだけ緑がかっている気がしなくもない。
 上から見ると青かったのに、水中写真は緑。ここにまた新たな問題提起がなされたような気がするが、そんなことよりちょうど昼時だったので、そのへんの岩に腰掛けて、おにぎりを食べることにした。
 おにぎりはシラカワ氏が買ってきてくれた。
 出発前に、何がいいですか、と聞かれていたので、シーチキンはやめてくださいと私は答えてあった。おにぎりに脂っぽいものを入れるのはよくない。
 シラカワ氏の買ってきてくれた昆布と鮭のおにぎりをパクパク食べた。渓谷で食べるおにぎりはとてもうまい。
 こうして腰を落ちつけてみると、これ以上歩く必要を感じなかった。
 この先さっきのダムほど青々と水がたたえられている場所がないことは、ネットで見て知っている。この道をもう少し行くと、ユーシンロッヂがあって、たいていのハイカーはそこで引き返すようだ。そこから先は登山になる。われわれはエメラルドブルーの水を見ておにぎりが食べられればそれでよかった。それこそが今回の最重要ミッションとさえ言える。ここまでの達成で十分であった。
 黒部以上のスケールがなくても何の不満もない。今日来てよかった。
 黒部以下でも満足なのは、ユーシン渓谷にはユーシン渓谷の音があり匂いがあり、風が吹き日差しがあって、それが全体として心地いいからだ。
 岡田喜秋がそのぐらいでは現代人はおどろけない渓谷として例にあげていた耶馬溪だの長瀞だの寝覚ノ床にしたって、川原に座っておにぎりを食べればきっと気持ちいいに決まっている。このことから彼が耶馬溪でおにぎりを食べていないことがわかるが、つまり彼が気にしているのは、渓谷美といってもその地形が特徴的かどうかということだろう。
 だが私が今見ているのは地形ではなく、水だった。
 実は前から思っていたことなのだが、観光や散歩において重要なのは水じゃないかと思うのだ。
 われわれはなにかというと水のあるところへ行きたがる。
 海岸や川べり、公園には池があるといいし、屋内でも水槽があると少しほっとする。そしてそれらの水が美しく透明であれば、心の中で何かが満たされた気持ちになる。私がここに来たかったのも、つまるところ透明な水が気持ちよさそうだったからだ。
 つまり水は、ただ水というだけで近寄ってみたくなるのであり、たとえ飲んだり泳いだりしなくても、それが透明で爽やかであれば十分うれしいものなのである。
 んんん、ナイス、透明な水!
 あまりに当たり前すぎてみんな気づいていないが、人は旅や散歩の半分ぐらいは、水(できれば透明な水)を見にいってるのだと私は考える。
「湧水池とかの、池の底から水が湧いてるのって、ずっと見ていられませんか」
 ふたりに尋ねてみると、反応はいまひとつだった。
「水がきれいなら同じ場所に何度行っても大丈夫なんですよ」
 もう一度だめ押ししてみたが、まあ、そういう人もいるかもなあ、ぐらいの表情。
 なぜだ。なぜ、わからないんだ。
 私には確信がある。
 透明な水はそれだけでわれわれを満足させてくれる。おどろきがあるとかないとか、そういう類のものではないのだ。
 ずっと見ていても飽きないもの、何時間でも見ていられるもの選手権があったら、透明な池の底からもくもく砂を巻き上げながら湧いている水でエントリーしたい。
 透明な水は、それだけでスペクタクルなのである。

 帰り道、林道をのんびり歩いていると、シラカワ氏が急にあわてた声で、
「イノシシがいる!」
 と言って、崖のすぐ下を指さした。
 ガードレール越しに川をのぞきこんだら目が合ったという。
 われわれもおそるおそるのぞきに行こうとすると、ガードレールのすぐ下1メートルのところで何やら黒い獣が跳ねた。そしてそのまま崖を駆け出し、今われわれが歩いてきたばかりの上流のほうへ逃げていった。
 木々に隠れてそれが獣だということしかわからなかったが、スガノ氏がすばやく写真を撮り、よくよく拡大して確認すると、それはイノシシではなくクマだった。
 おおお、クマじゃないか!

写真真ん中あたりのコゲ茶のかたまりが子熊。「生きた心地がしませんでした」(シラカワ氏談)

 大きさからみて子熊だろうと思われる。
 思わず、あたりに親熊がいないか見回したわれわれだ。
 子熊はずっと遠くへ走り去ってしまったから親が襲ってくることはないと思うが、もしそんなことになれば本格的にスペクタクルさんぽになるところであった。私がしたいのは、そういう《怒濤のスペクタクル巨編グリズリー大襲撃!》みたいなスペクタクルではなくて、見ごたえがある、壮観、景色として特別といった方面のスペクタクルであるから、母熊はそのへん勘違いしないように。

 そうしてこの日、私は日が暮れる前に家に帰りついた。
 東京から海のような色をした渓谷を見にいくのに、1日は十分長いということである。
 そういえば青と緑の謎について解明するのを忘れたが、それはまた別の機会ということにしたい。

スペクタクルさんぽ隊隊長お気に入りのモコモコした新緑の山。
(撮影・表記以外すべて菅野健児)

※お出かけの際は、各自で現地の最新情報や必要な装備を十分にお調べの上、ご準備ください。

※「スペクタクルさんぽ」にうってつけの場所を大募集! TwitterFacebookなどで教えてください! ハッシュタグは「#スペさん」で!