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井上ユリ『姉・米原万里――思い出は食欲と共に』(文藝春秋)

 初めて知る万里さんの素顔

 いきなり核心をついたエピソードです。本書の主人公にふさわしい導入です。
 
<一九五〇年代、下水道はまだほとんど普及しておらず、どの家のトイレも(あのころはお便所、といったが)汲み取り式だった。万里は大岡山のお便所に三回落っこちた。三回とも汲み取り屋さんが来て間もなくで、幸運にも大事にはいたらなかったが、そのたびに母とS家のおばちゃんは、汚物の中から万里を引き上げ、体を洗い、着替えさせ、臭いのとれない服を何度も洗濯して、を繰り返した>
 
 小さい頃から、この主人公はすごい集中力を発揮するタイプ。遊びに夢中になったり、考えごとをし始めると、他はいっさい目にも耳にも入らなくなります。母親がどんなに大きな声で「万里ちゃん!」と呼びかけても気がつかない……。「三つ子の魂」なんとやら。人と話している最中でも、ふっと自分の世界に入り込む癖は、「生涯直らなかった」というのです。
 
<あのときもお便所の中で、姉は想像の世界に入って上の空だったのだろうか。このお便所がどういうふうになっているのか、気になってしまっていたのだろうか。そして、のぞきこんでいるうちに吸い込まれるように感じて落ちていったのだろうか。 それにしても三回、というのがすごい。普通は一度で懲(こ)りるだろうに>
 

 たしかに、規格はずれの“武勇伝”です。「あとがき」でこう語られるのもむべなるかな、と思います。
 
<本書をお読みになればおわかりいただけると思うが、姉はこどものときから、きわめて個性的だった。わたしは生まれたときから一緒にいたので、さほど変とは実は思っていなかったのだが、十代も後半になってくると、やはり人とはずいぶん違うことに気がつきだした。「あの人、面白い。ちょっと変わり者がいる」とまわりから言われている人に会っても、
「えっ? これぐらいなら、万里の方がずーっと面白いし、変わっているじゃない」
と思ってしまうのだ>
 
 本書には、米原家の“秘蔵写真”がたくさん紹介されています。三回落ちた頃の、米原さんの表情はステキです。面構えと呼びたくなるような個性的な素顔。ああ、これが米原万里さんだったのか、と目からウロコが落ちる思いです。
 

 一家が続いて、大田区馬込の新居(当時としては画期的な水洗式トイレにしたそうです)に引っ越すと、万里さんは真新しい壁いっぱいに絵を描きます。訪問客が驚くと、「こんな広々とした真っ白な壁を見て、絵を描きたくならない子がいたら、その方がおかしい」と意に介さなかったお母さん。

 ミッション系の幼稚園で、万里さんが先生の言うことを聞かなくて呼び出しを受けた時も、「こんなこどもすら相手できないような幼稚園はこっちから願い下げだ!」と啖呵を切って、わが子を連れ帰ったという方です。

 娘のそんな個性がご自慢だったらしい母親と、子煩悩でやさしい父親の愛情に包まれた幼時の万里さんは、『窓ぎわのトットちゃん』に負けず劣らずの変な子ぶりを発揮します。

 この馬込の御宅には何度か伺って、その都度お母様にもお会いしました。それだけに微笑ましく、親近感を抱いてしまいます。さて、ここでいまさら紹介するまでもなく、本書の主人公は、ロシア語同時通訳で、エッセイスト、作家の米原万里さん。2006年、56歳の若さで亡くなり、この5月で没後10年を迎えました。著者は米原家の2人姉妹の妹で、イタリア料理を中心にした料理研究家、故・井上ひさし氏の夫人です。

 1995年、同時通訳の珍談、奇談、失敗談を披露しながら通訳という仕事を論じた『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』(新潮文庫)で読売文学賞を受賞して以来、米原さんは文筆家として一気に活躍の場を広げます。1997年、『魔女の1ダース』(新潮文庫)で講談社エッセイ賞、2002年、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)で大宅壮一ノンフィクション賞、2003年、『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社文庫)でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。「前のめりに驀進する」と井上ひさしさんが評したのは、万里さんの言葉の力強さを指してですが、「書くこと」に打ち込む生き方そのものに、同様の迫力がありました。しかも、気負い過ぎるふうはなく、笑いの余裕も忘れないで――。

 没後10年に合わせてアンソロジーが編まれたほか、出版社7社が新刊・既刊の文庫16冊に共通の帯を巻いてフェアを展開しています。帯には「心に効く愛と毒舌」という惹句。先日、八重洲ブックセンター本店で開かれた回顧展に立ち寄ると、たくさんの来場者が熱心に万里さんゆかりの展示物に見入っていました。いまだに多くのファンを惹きつける彼女の“健在”ぶりを目の当たりにしました。
 


 そんな彼女の傑作なエピソードが満載された本書です。面白くて、またたく間に読み切ってしまったらモッタイナイ、と心配していたら、最後にたどり着くまで意外にも時間を要しました。
 それというのも、在りし日の万里さんの面影を、ついあれこれと思いめぐらせてしまったからです。とりわけ大学時代、初めて米原さんに会った頃のこと。彼女は大学を卒業後、いったんは小さな出版社に勤めていましたが、1年後には大学院生に舞い戻り、ロシア文学の勉強を続けていたのです。3歳年少の私は、同時期に学部生として同じ教室に在籍していたという関係です。ほとんど忘れかけている遠い過去ですが、著者の筆力に喚起され、いろいろ思い出してきたのです。
 
<歯切れの良いエッセイを書き、テレビのコメンテーターとして、なにものをも怖れない大胆な発言をする万里を知る人には意外に思えるだろうが、姉は怖がりだった。
 怖がり、というのは正確な言い方ではないかもしれない。姉は決しておどおどした子ではなかった。日本の学校にいるときも、みんなの前に出て自分の作ったお話を披露したり、学芸会で自己流のバレエを延々踊ってしまうようなこどもだった。東京でもプラハでも、遊ぶときは仲間のリーダーシップをとる積極的な性格だ。ただ、新しいこと、未知の体験に対しては、おじけづいた>
 

 
 食いしん坊であることは、姉妹に共通していても、未知の食べものに対して勇猛果敢な著者とは対照的に、「知らないもの、食べなれないもの」には慎重派の姉。「ちょっと怖(お)じけて、二の足を踏んだ」という性格は、自分の進路をめぐってもそうだった、といいます。

 それでハタと思い出す表情がありました。なるほどそうだったのか、とようやく得心がいきました。亡くなる前の10年ほど、米原さんは豪快、大胆の姉御肌。いわば怖いものなしのゴッドマザー的存在でした。ところが、大学院生時代の彼女には、そういう印象を抱いた思い出がありません。人が良くて、派手で大柄ではあるけれど、繊細でどこか不安そう、さびしがり屋の印象です。

 もっとも、ほとんど授業に出なかった私なので、彼女と接する機会はごくまれでした。たまに研究室にフラリと顔を出した時に、顔を合わせるか、そうでないか。院生だった米原さんと、めったに姿を見せない学部生。完全にすれ違っても不思議でありません。ただ、誰かに教えられて、彼女のバックグラウンドは知っていました。

 父親が日本共産党の幹部、衆議院議員の米原昶(いたる)氏で、その関係で万里さんは9歳から5年間をチェコスロバキア(当時)の首都プラハで過ごし、そこのソビエト大使館付属学校に通っていた。だから、ロシア語は「ダンチにできるのだ」と。

 そんな彼女と、どういうきっかけか忘れましたが、日本の現代詩や小説の話、あるいは作家のゴシップなどを時折しゃべるようになりました。研究室のソファで寛いだり、地下鉄の最寄駅まで歩いている間です。そんなある時、ふと真剣な表情で「いろんな本をたくさん読んでいるのね」と言われました。急に、それまでと違うトーンになったので、妙に心に残りました。

 きっと日本を離れていた時間が長いので、そのブランクが気になるのだろう、と想像しました。同時に思ったのは、この人はたしかにロシア語はできるかもしれないけれど、「居場所を探しているんだな」ということでした。大学院で19世紀のロシア文学を学んでいるとはいえ、それを一生続けたいと思っているふうでもなく、何をしたいのか、自分でも考えあぐねている印象でした(それは誰しも似たり寄ったりではありましたが)。

 本書を読んでいると、当時のイメージがありありと迫ってきます。一方で驚かされたのは、その頃北海道大学に進学していたユリさん宛ての手紙です。そこに添えられた詩作品!

 まったく知らない万里さんが、急に顔を輝かせて出現してきたような驚きと嬉しさを感じます。「ういしゅる」の愛称で呼んでいた妹の帰京を待ち望む詩――中原中也ばりの「ういしゅる帰る日の歌」。
 
<ういしゅる帰ると聞いた日にゃ
 足どりかろやか胸踊り
 歌も飛び出る口もとは
 知らず知らずにほころんで
 冷い冬の太陽も
 いつしかやさしくほほなでて
 無情なはずの北風も
 陽気に陽気にささやくよ>
 
 と続いていくリズミカルな作品です。こんな詩を書く人だったのか、というのは、当時は思いもしなかった横顔です。文学作品を論じる際に、時折マルクス主義的文学論の紋切り型表現がまじる人だったので、こんなにも自在にやわらかな言葉をあやつって、メルヘン的な詩を書く人だと知れば、何か言いたくなったに違いないからです。そして、この作品にこそ56年の生涯では時間が足りなくてやり遂げられなかった彼女の本質――あり得たかもしれない別の可能性を、いまさらのように感じるのです。

 私が大学を卒業したのと同じ年に、修士課程を終えて大学を去った万里さんと、次にばったり出会ったのは地下鉄の銀座駅でした。仕事先に向かってせわしなく移動している時で、大きな書類の束を脇に抱えた彼女も忙しそうな様子でした。「どうしてる?」と近況を尋ね合い、「たまには会わない?」と言った万里さんは、通訳という仕事にハリを感じているようでした。

 その後は活躍の場を広げていく彼女に、原稿を依頼したり、対談に出てもらったり、いま中公文庫にあるエッセイ集(『真夜中の太陽』、『真昼の星空』)のきっかけになる連載を頼んだり、何くれとなく仕事で関わってはいましたが、本質的な意味で、編集者として向き合ったことはありません。エッセイスト、作家としてわが道を切り拓いていく彼女の姿を、脇から頼もしく眺めていました。
 

 ところが、本書を読んで、ふっと悲しみがこみ上げました。彼女をもっともよく知るユリさんが、姉と対話するように綴った断章には、神様がもう少し時間を与えてくれたならば(米原さんは唯物論者として死にたいと言っていましたが)、おそらく今頃私たちが楽しむことができたはずの彼女の豊かな可能性が示唆されているからです。

 姉に負けず劣らず巧みな語り口。読者をなごませながら、本書は鮮やかに米原万理さんを甦らせます。読み終えるのにこんなに時間を費やすことになろうとは、そしてこんな幸福感を得ようとは、思いもかけない“誤算”でした。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
写真提供・文藝春秋
 
*米原万里さんの公式サイトが、誕生日に合わせて4月29日に開設されました。
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