「Webでも考える人」というスマートな舞台に、いきなりタイトルのような厳つい文章を掲載するには、いささか事情の説明をさせていただかねばならないだろう。
 本論考は雑誌の季刊誌「考える人」に連載していた仏教思想の変遷を考えるシリーズの続編である。
 目的は、インドから日本まで、ゴータマ・ブッダから、私が属する曹洞宗の宗祖、道元までの仏教思想を、私の独断かつ偏見的視点で串刺しにして語るという、無謀なものである。
 その「独断と偏見」の核心は、「自己」という存在様式以外に実存しえない人間の在り方を、「無常」「無我」「縁起」としてとらえる仏教思想の最もユニークなアイデアが、どう継承あるいは改変されたかという点にある。
 私の考えでは、このような「実存」それ自体に、「無常」でない「超越」的な存在根拠を与える思想が形而上学である。本論考は、この「実存」と「超越」の思想的関係を、ゴータマ・ブッダから道元禅師まで追跡しようというものである。
 そのアウトラインを言っておくなら、ブッダによる「無常」という「実存」把握に、様々な「超越」的理念が浸透していく過程がインドと中国の仏教思想の主流であり、それは絶対的根拠を希求する人間の存在論的思考の傾向そのものを反映しているであろう。
 ちなみに私は、思想には所詮、「無常」に踏みとどまる「仏教」と、常に文脈のどこかに何らかの「超越」的理念を設定する「仏教以外」しかないと思っている。
 以下、これからの連載では、日本列島に仏教が伝来して以来、鎌倉時代の仏教革新運動の立役者、法然、親鸞、道元に至るまでの思想を検討していく。なお、すでにお察しの通り、雑誌連載に引き続き、本文で各祖師への敬称を略する。ご海容を請う。

仏教以前の思想

 日本列島の住人に仏教が伝来する以前の、ある程度の思想性を持つ(世界観や人間観を窺わせる)言説といえば、まず『古事記』を挙げることになるだろう。
 思想的言説としての『古事記』の特徴は、超越的理念を一切持たないことである。本文冒頭で言う。

「天地(あめつち)初メて発(おこ)りし時、高天(たかま)ノ原於(に)成りませる神ノ名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に、神産巣日神(かむむすひのかみ)」

 ここには、なぜ「天地」が現れたのか、あるいは何が開けて天地になったのかについての説明はない。つまり、人間が現に見ている天と地は、とにかく最初からそういうものとして現れたのである。同じように、神々の住地である「高天原」も「発りし」とたんに、とにかくそこにあって、神もまた、どういうわけかそこに自然に「成り」出てきたのである。それらの「存在根拠」や「発生理由」と比定しえる、いかなる理念も語られない。
 さらに、『古事記』の神々は、一神教における絶対神とは性格がまるで違う。読めばわかるからここでは一々引用しないが、彼らは要するに超能力(国を産めるような)を持った人間である。喜怒哀楽を持ち、時に争い、苦悩し、睦みあい、享楽する、人間なのだ。だからこそ「天孫降臨」して、子孫は「現人神(現神)」たる天皇となり、その天皇も終戦後に「人間宣言」ができたのである。つまり、『古事記』の神は列島の住民と血縁関係にあるとされているのである。
 もう一つ。『古事記』には、「死」の解釈や意味付けがない。我々が決して経験できない「死」(経験主体がいないのだから)は、それ自体が形而上学的な観念であり、その解釈には超越的理念によって強力に基礎づけられたコンテクストにおいてなされなければならない。
 ところが、『古事記』にはそれがまったくない。ということはつまり、「死」が存在しない。有名なイザナギ・イザナミの物語では、火の神を産んだことが元で死んだイザナミに会うため、死者の住む「黄泉の国」にイザナギが出かけていく場面が出てくる。ということは、現世と死後の世界とは地続きなのであって、そうだとすれば、『古事記』の死者は、「変わり果てて」いても、死んではいないのである。

形而上学の無用

 このような『古事記』の特徴は、アニミズムによく見られるアイデアである。すなわち、自然発生的に成立した地縁血縁共同体の由来を説明し、内部の秩序を正当化する体系的言説なのだ。
 地縁と血縁で共同体を組織し秩序付けるなら、特定の血筋や土地を組織原理や秩序原理として設定しなければならない。となると、共同体の安定は、特定の血筋や土地の維持にかかるから、それらが「変わらず」「そのまま」続いていくことが重要である。
 また、共同体内のメンバーにとっては、そこに生まれたという事実それ自体が、彼らの存在根拠になる。血縁と地縁が共同体の原理ならば、そこに生まれた事実は、アニミズムの言説によって「原理」的に肯定されるのである。すなわち、「ありのまま」が価値なのだ。
 この状況は、まったく異質な共同体の大規模な「侵入」や「征服」がない限り、根本的に変化することはない。もし「異民族」との接触がないまま変化があるとすれば、それは経済の規模拡大や構造転換が既存の共同体秩序を破壊していく場合であろうが、すでにある地縁血縁を一挙に相対化するのは、異質な共同体との抜き差しならない遭遇と共存である。それがない限り、メンバーは自分と共同体の従来の関係を変える必要もなければ明瞭に意識することもできない。
 異質な共同体との相克が、初めて地縁血縁とは別の、自らの「存在根拠」を設定する必要を生じさせる。これが「形而上学」成立の重要な条件である。
 もし、「異民族」の進出が「渡来」と呼べるほど小規模なら、婚姻を繰り返して既存の地縁血縁共同体に回収されてしまうから、「形而上学」は無用である。おそらくは、ここに日本列島と古代ギリシャのバルカン半島で起こった思想的出来事の差異があると、私は考える。
 『古事記』の神と「ギリシャ神話」の神は、その「人間性」においてよく似ている。ところが、「ギリシャ神話」の後に「ギリシャ哲学」が現れたのに対して、『古事記』の後には、列島自前のいかなる「哲学」も無かった。
 列島として相対的に周辺民族から切り離されたがゆえに、地縁血縁共同体は「そのまま」機能し続けたが、半島ではそうはいかない。ヨーロッパ、アジア、アフリカの交差点のような地理的位置は、孤立していることを条件の一つとする安定的な地縁血縁共同体の持続を困難にしたのだろう。この差異が、形而上学、超越的理念の要不要を分けたのである。
 ということは、後に「日本」と称されるようになった共同体では、地縁血縁を原理とする組織構成や秩序構築の持続が可能であったゆえに(アニミズムが近代国家を形成するという世界史上特異なケース)、「そのまま」「ありのまま」の「現実肯定」的アイデアが、『古事記』後の思想的言説の根底に、常に強力に作用し続けることになる。

仏教の伝来

 このような思想的風土のところへ、六世紀半ばころに仏教が公式に伝来してくる。それ以前にもいわゆる渡来人の私的信仰はあったのだろうが、思想的な視点からは、公私の区別は問題ではない。注目すべきなのは、日本への伝来は、僧侶が布教目的で渡来した結果ではないという一点である。そして受容する側も、仏教の教義に感銘して信仰したわけではない。
 少なくとも、伝来の公式記録に僧侶の名前はなく、『日本書紀』の記事では、当時の百済国聖明王が欽明天皇に仏像と経典を贈ったとある。
それに対して、天皇は、

「これを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して、『自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定はしない』といわれた」
「西の国から伝わった仏の顔は、端麗の美を備え、まだ見たこともないものである。これを祀るべきかどうか」(『日本書紀(下)全現代語訳』、宇治谷孟、講談社学術文庫)

と述べ、臣下の蘇我稲目(そがのいなめ)と物部尾輿(もののべのおこし)に仏教受容の是非を諮問する。
 するとこの時点で、天皇は仏教の教義に関して自力で評価できず、彼の感銘は主に仏像の出来栄えにある。それが、祖霊として姿を現さない『古事記』的「神」よりも、有難味が大きく思えるというなら、つまり、彼は仏を「神」と同類だと理解しているのである。
 これに対して、諮問された蘇我稲目は答える。

「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」(同前)

 当時の先進国である中国・朝鮮半島の諸国を「西蕃」と言い放つ対抗的意識が、実際に当時の彼にあったかどうかはともかく、その言い分は要するに、近隣諸国も拝んでいるのだから、我が国も拝んだらよかろうという、外交レベルの考えの表明である。
 物部尾輿はこれに反対して言う。

「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社稷の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう」(同前)

 つまり、外国の神(=仏)を拝むと国の神が怒るから受け容れない方がよいという主張である。仏が神と同類に見做されていることは明白である。
 このような経緯を見ると、列島における仏教受容は、当時の極東の政治的外交的な諸事情を背景に、時の為政者(俗人)の間で、『古事記』の神と同等かそれ以上の現世的利益をもたらしそうであると判断されたから、行われたのであろう。
 アニミズム的信仰が、ある意味で自然と共同体を操作するテクニックだったとすると、仏教の伝来は先進文明、あるいは先進技術の伝来だったのであり、この時点で仏教の思想と実践の意味が理解され尊重されたわけではないことは、明らかだろう。

「聖徳太子」の意義

 仏教が仏教として自覚されたことを表す言説は、「聖徳太子」によって発せられた。

 従来、「聖徳太子」は「日本仏教の父」のごとき扱いをされてきた。
 有名な「憲法十七条」の「篤く三宝を敬へ」の一節、列島で著述された初の経典注釈である『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』の作者であるとされた彼が、「父」的扱いをうけるのは、当然と言えば当然である。
 ただ、現在、「聖徳太子」の実在は大いに疑われている。モデルとなる人物がいたにしても、私たちの「常識」的知識としての「聖徳太子」は、創作された偶像であるという理解が有力視され、また、「憲法十七条」や「三経義疏」も、作者は別人であるとする説は根強い。
 だとしても、本論においては、そのような事情は問題にならない。本人が実在しようとしまいと、「篤く三宝を敬へ」に思想的意味は乏しく、『三経義疏』の内容も当時の大陸で行われた注釈の域を出ないことが知られており、思想構造に際立った独自性を持つものではない。 
 しかしながら、「聖徳太子」の言葉とされる「世間虚仮 唯仏是真」は事情が違う(彼の死後に妻が製作させた「天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)」に織り込まれている)。

奈良県・中宮寺所蔵の「天寿国繍帳」


 この言葉の決定的意味は、列島において、誰であろうとある人物が、仏教そのものを発見した事実を示していることである。ここにおいて仏教は、アニミズムでも文明でも技術でもなく(「唯仏」)、地縁血縁共同体(『世間』)を正当化するアニミズムから導出された『ありのままでよい』的言説を超え(『虚仮』)、一個の人間の実存の問題として捉えられている(「是真」)。
 しかし「聖徳太子」以後長らく、仏教がこのような問題意識で語られることはなくなった。少なくとも、これに匹敵するインパクトとオリジナリティを持つ仏教者個人の言葉は、最澄まで現れない。
 この画期的な言葉を発した人物は、おそらく当時の宮廷にあっては孤独な知識人にとどまったのであり、導入された仏教は、あくまで為政者の統治システムを正当化するイデオロギー、あるいは技術として普及したのである。つづく

引用文献:『日本思想体系 古事記』『日本思想体系 聖徳太子』(いずれも岩波書店)、宇治谷孟『日本書紀(下)全現代語訳』(講談社学術文庫)