1969年、ボン近郊のマリア・ラーハ修道院にて。

 創刊号から連載されている「阿部謹也自伝」。読者からの反響も大きく、今回は百枚を超える拡大版になりました。阿部氏は一九六五年に東京を離れ小樽商科大学に赴任します。この小樽時代に、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団の奨学生となった三十四歳の阿部氏は、一九六九年から二年間ドイツに留学します。今回はそのドイツの生活がたっぷりと描かれます。

 一九六九年といえば激動の時代です。七一年までの二年間だけを振りかえっても、東大の安田講堂での攻防戦、京大闘争、アポロ11号月面着陸、三里塚闘争、よど号ハイジャック、牛込柳町排ガス鉛公害、光化学スモッグ、三島由紀夫割腹自殺、大久保清事件、ドル・ショックといった出来事が続々と起こった時代です。

 時代の波は否応なく人々のこころや考え方に大きな影響を与えます。阿部氏がもしこの二年間を日本で過ごしていたら、その後の研究や仕事は果たしてどうなっていたのだろう、と思います。ドイツ時代の二年間は、そう思わずにはいられないほど、その後の阿部氏の研究と仕事の道筋を決定しているのです。

 阿部氏の初期の代表作は『ハーメルンの笛吹き男』であることは誰しもが認めるところでしょう。この「ハーメルンの笛吹き男」との出会いは、ドイツ留学時代の偶然の出来事に支えられています。ドイツの中世後期の地域史を描こうとしていた阿部氏は、ボン大学のフーバッチュ教授から「それならここにいてはいけない。すぐにゲッティンゲンの文書館に行かなければならない」と半ば強引ともいえる手引きによって、ボンから研究の場を移します。

イザローンのゲーテ協会にて。

 ゲッティンゲンに住まいを定め、毎日文書館にこもり参考文献にあたっていたとき、阿部氏は大学の図書館にある古文書のなかの「この地方にハーメルンの笛吹き男に率いられた子供達が入植した可能性がある」というくだりと出会います。そのときのことを阿部氏はこのように書いています。「この文章を読んだとき、一瞬背筋に何かが走る感じがした。」

 一般的には「ハーメルンの笛吹き男」の話は「伝説」の範疇に位置付けられていました。阿部氏が「ハーメルンの笛吹き男」の研究に夢中になり始めたことについて、ゲッティンゲンにいたある先輩は「そんなことに道を外れていってもしょうがないよ。やめた方が良いよ」と忠告します。また、そもそもドイツにおいても「学問分野の境界ははっきりと守られており、よほどのことがない限り、他の分野には手を出さないのが常識とされていた」のです。

 しかし自らの発見と探究心に忠実であった阿部氏は「ハーメルンの笛吹き男」についての研究を、以来他人には黙して語らぬまま続行します。このゆるぎない姿勢があったからこそ、私たちの手元にあの傑出した一冊の本が届けられた、というわけです。信ずること、継続することの力を、このエピソードは雄弁に物語ります。

 そして今回の「阿部謹也自伝」では、その後の阿部氏の大きな研究対象となる「差別」と「世間」というテーマが、このドイツ滞在中にすでに見出されていたことが描かれます。テーマというものは、どこかにふわふわと浮かんでいるものではない。それを見出す人間の頭のなかでいかに問題が取り組まれたかによっておのずと立ち表れてくる極めて個人的な事象であることを「阿部謹也自伝」は語りかけてきます。血の通った学問とはいかなるものか、連載の第二回に登場した「それをやらなければ生きてゆけないテーマを探せ」という恩師の言葉がここでも響き渡ります。

 ドイツ留学時代の貴重な写真もご覧いただきながら、今から三十年以上前の阿部氏の原点ともいえる経験をぜひたどっていただきたいと思います。