すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる

猪木 宇野先生は、今回の対談の冒頭で、本書を「教養論」でもあると評されましたが、その点はどうお読みくださいましたか?

宇野 大学改革における人文社会系学部の縮小・廃止の流れに抗する身からすると、「リベラルアーツ」と「教育の自由」の意義を再確認させてくれる本書は、理論武装の材料に満ち溢れていて、とてもありがたかったです。

猪木 一番の自由の砦であるべき大学が、いま本来の存在意義を見失いつつあることを、私はとても憂慮しています。
 もちろん、自然科学・工学教育を重視し、人文社会系を軽視する傾向は今に始まったことではなく、イギリスやアメリカでも、十九世紀後半あたりから続いている流れです。それでもイギリスやアメリカでは、エンジニアリングやバイオロジーで稼いだ研究収入を人文系に還流させたり、あのオックスフォードもビジネススクールを設けたり、何とか人文系を守っていこうとする気概がある。ところが日本では、文部科学省自身が旗を振って人文系を潰そうとする。ともすれば堰を切ったように全体が一方向に流れてしまいかねない危機感を覚えます。

宇野 ハーバード大学などで学生の読書状況を調査すると、プラトンの『国家』をはじめ、マキアヴェリやホッブスなどが続き、トップ10のほとんどを人文書の古典が占めます。彼らはビジネスやコンピューターサイエンス、あるいは最先端の遺伝生物学をやっていたりするのですが、根っこにあるのは古典的な教養なのです。根っこが弱いまま、短期的な「成果」を求めてマーケット上の流行り廃りを追いかけても、大学が民間企業に勝てるわけがないし、比較優位を失ってしまうだけ。それは大学の自殺行為でしょう。

プラトン『国家』上・下(岩波文庫)
 

猪木 おっしゃる通りです。

宇野 本書の言葉を借りれば、「実利と無縁なものの中で自己を表現する自由」を大学は守らなければならない。

猪木 今は政治家も官僚も、産業界の「役に立つ人材、即戦力を育成せよ」という要請に応えようとし過ぎだと思います。すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる。もちろん実利志向の研究は必要ですが、それは民間企業や政府系の研究所でやればいい。やはり大学は、知ること自体を目的とする、何の役に立つか分からない研究を自由にできる場所でなければならない。そういう「ポケット」を持っていない社会は、非常に弱いものになると、私は直感しています。

宇野 本書では、研究者の「プロレタリアート」化についても懸念されていましたね。思い当たるのは、短い期間に成果を出すことを求められている研究者たちの姿です。本来の目的からちょっと離れた周縁的なテーマを論じる余裕もありません。でも、本当は「何の役に立つのか」を問わない自由な議論の中で、新たなアイディアが生まれてくるのではないかと思います。

「独立自尊」が自由を守る

猪木 外国の大学には、だいたいコモンルームみたいなスペースがあって、そこで様々な分野の研究者たちがコーヒーを飲みながら自由に談笑している。半分くらいは噂話か人の悪口なんだけど(笑)、それでも異分野の研究の話などを聞いていると、単に耳学問が深まるだけではなく、たまに自分の研究に関することで「ああ、そうか」と気づかされることもあります。

宇野 関西の大学には、まだそういう余裕が多少残っていますね。先日、京都のとある人文系の研究会に行ったら、いつの間にかゆるりと始まって、いつ終わるのかわからないまま、気づくと飲み会になっていた(笑)。で、みんなずっと人の悪口を言っているんですけど、意外と苦にならない。単なる嫉妬や憎悪ではなく、そこにユーモアや批評精神があり、「芸」になっているからだと思います。

猪木 天皇が京都だった頃は、常に権力が近くにあったので、直接的な悪口がいいにくい環境だった。だから技巧をこらしたレトリックが発達した(笑)。今は権力の中心となった東京がそうでしょうか。

宇野 学問や文化は、あまり素直だったり、理想主義が過ぎると発達しない。どこか意地悪さや批評性、ある種のセンスが必要なのですが、京都にはそれらが渾然一体となった言語文化がある。

猪木 井上章一さんの『京都ぎらい』なんて、まさにその典型(笑)。

井上章一『京都ぎらい』(朝日新書)
 

宇野 確かに(笑)。そこには微妙な差別や偏見、権威主義も入っているんだけど、同時に権威をからかう姿勢、付和雷同しない精神もある。「周囲が何と言おうと、オレはこう思う」「なぜだ?」というところから有意義な議論が始まります。それなのに、学会ではたまに「これは○○大学の××先生の定説です」「海外の有名ジャーナルにはこう書いてあります」と〈権威〉を使って議論を打ち切ろうとする人がいて閉口します。

猪木 本来、社会が経済的、精神的に成熟してくると権威主義は弱まってくるものです。どの大学が一番いいとか、どの新聞が一番いいとかいう表層的な価値観が後退し、個々人の鑑識眼、判断力がものを言うようになる。それが成熟であり、福沢諭吉の言う「独立自尊」です。ところが日本では官庁や大学、ジャーナリズムにいる人でも権威主義が強い。未だに外国からの評価を第一の基準にする。何を言えば喜ばれるかを忖度しながら発言する。もう少し自由な自己本位の精神を持つ方が良い。特に大学には、そういう自由の風土が残っていなければならないと思います。

福沢諭吉(1835年-1901年)
 

宇野 本書では、福沢諭吉の存在感も大きいですね。福沢は日本の「権力の偏重」を批判しました。ヨーロッパの場合は、宗教と政治が常に対立することによって、複数の価値観や考え方が競合し、共存していく。ところが、日本では政治も経済も文化も、権力の下にある一つの土俵に上がってしまう。そうなると、いかにその中で多数派になるか、いかに権力に近い場所を確保するかしか考えなくなる。大学までもがそのような価値基準しか持てなくなると、もう逃げ場所がない。

猪木 実利や権力から離れ、自由に価値を追究し非定型な判断のできる人材を育てないと、非日常的な危機に対応する能力が社会から失われてしまいます。

宇野 今の日本はものさしが単純化し、「長いものには巻かれろ」とばかりに社会が一つの方向に向かってしまう危険がある。それを防ぐためにも、リベラルアーツ、人文社会系の学問の擁護が必要だという猪木先生の問題意識がひしひしと伝わってくる本でした。

猪木 ていねいに読んでくださって、著者冥利に尽きます。ありがとうございます。
(了)

※この対談は、月刊誌「波」(2016年6月号)に掲載された「自由と不自由のあいだ」に加筆修正をしたものです。