少女が見せてくれた絵を前に。


 少女はおもむろに棚の中から1枚の絵を取り出し、私たちに掲げた。「何を描いたものなの?」と尋ねると、彼女はいつもの穏やかな口調で答えてくれた。
「私たちの村がIS(過激派組織「イスラム国」)に襲われ、焼け出されて逃れてきたとき、ただただ茫然と地面に座り込んでいました。するとテレビや新聞の記者たちがどこからかやってきて、私たちにカメラを向けました」。そのレンズから私たちが顔を背け、隠している様子です、と。

 イラク北部に暮らしていた少数宗教、ヤジッド教の人々がISに襲撃されたのは2014年8月、それから2年の月日が経とうとしている。避難生活を送る少女の一家が故郷に帰れる日はまだ見えてこない。彼女が描いたその1枚は、それを眺める私にも、ここイラクで過ごしていることの意味を問うているようだった。
  
 深い傷を負った人々にカメラを向ける度に、自分は一体何者なのか、何のためにレンズを向けているのかと自問自答する。その戸惑いに慣れることはない。“慣れ”てはいけないものだと思う。慣れる、ということは、その後ろめたさから逃げることだからだ。それはレンズの先の人に心を閉ざし、いたずらに傷つける行為となってしまう。「伝えるため」という大義と、目の前の人を「傷つけたくない」という気持ち、その狭間でいつも揺れ続けることが、この仕事で大切なことかもしれない。

 彼女たちにシャッターを切る度に、心の中で静かに呟く。「ごめんね。そして、ありがとう」。

少女と共に避難生活を送っている妹、弟、親戚の子どもたちと。