「困ったら、いつでもいらっしゃい。私たちは、移民に慣れている」
 国民投票で英国のEU離脱が決まったというニュースに、大学生や中年の主婦、青果店の主たちがそれぞれ言葉を投げ掛けている。しかしよくよく聞いてみると、皆が<イタリアへどうぞ>と呼びかけている相手は英国に流入した難民たちではなく、英国人なのだった。
 「年じゅう悪天候なんだろ? イタリアで好きなだけ浴びて行くといいよ」
 陽光のことである。 
 南部プーリア州の青年が言う。
 「EUに残っていれば、『そちらのお天気は?』と遠い異国の人から尋ねられても、『おかげさまで、バルセロナもシチリア島も快晴です』と返事できていたのに、離脱すると、『今日もロンドンは曇天で』の繰り返しに戻るわけでしょ」
 欧州をまとめて大枠の中で暮らすということは、端的に言えば、太陽を共有するということ、とイタリア人は異口同音に言っているように聞こえた。

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 冷えと長雨を心配して、南イタリアを訪れた。友人たちの農作物への被害が心配で、見舞いがてら久しぶりに出向いたのである。
 その地プーリア州は、長靴型をしたイタリア半島の踵から足首の後ろあたりに位置する。アドリア海を挟んで向こう側に、クロアチアにボスニア、モンテネグロ、アルバニアが並び、南下するともうギリシャである。その先には、トルコ。
 古代から、他民族たちが上陸しては北進していくその道程にあり、都度、侵攻され、支配下に置かれ、あるいは奪掠(だつりゃく)され、壊滅し、しかし再び息を吹き返す、という歴史を繰り返してきた。どれだけ踏み潰されても、必ず頭を持ち上げる。
 「これと同じでしょう?」
 農耕者の若い友人は、青い麦の穂を掴んで笑った。
 広大な平地。溢れる太陽。漲る湧き水。肥沃の大地。
 攻め入り支配下に収めた時の統治者たちは皆、プーリアの持つ特性を見抜くや、政治と文化は遠く離れた本国で享受し、プーリアは己の胃袋と懐を満たす燃料供給庫として利用してきた。

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 友人は車を駆って、麦畑の中をさらに奥へと進む。暮れなずむ濃紺の空の裾を、木々の影が線描画のように縁取っている。
 異次元の風景に見とれていると突然、道は石畳となり、前方に白い集落が見え始めた。
 あれよあれよと思う間に、道は入り組み両側から旧い建物が迫る、車体すれすれの幅狭となった。友人はハンドルを切っては返しを繰り返し、最後に半分崩れたアーチ型の石門をくぐり抜けると、
 「ここが、君の宿だ」
 大聖堂の正面玄関前に止まった。
 視界に入りきらないほど巨大な大聖堂は、脊髄のように村の中央を貫き延びている。案内された部屋は、祈祷所へと繋がる長廊下の奥にあった。
 
 耳の中で鐘が鳴る。
 頭蓋骨まで震わす音に、跳ね起きた。窓の前で、大きな鐘がガラン、ゴロンと揺れている。そうだ、大聖堂に泊まったのだ。
 朝食を摂りに部屋から出た途端、焼きたてのパンに会う。続いて、淹れたてのエスプレッソ・コーヒーにも。
 そのまま鼻に引っ張られて、食堂に着いた。
 「おはようございます。お待ちしておりました!」

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 給仕の女性が掲げた紙皿には、菓子パンが何種類も並んでいる。どれもその人と似て、柔らかそうで福々しい。ふと、乳飲み子のような甘い匂いがする。目をやると、ヨーグルトにリコッタ、ストラッチャテッラ(生クリームの中に繊維状になったチーズが混ざっている)、ブッラータ(表がモッツァレッラ、中にバターへと変わる直前の生クリーム)、モッツァレッラがテーブルの最前列に並んでいる。
 「昨晩、絞った牛乳で作った、できたてです」
 母牛の乳房に吸い付く子牛になった思いで、チーズを掬(すく)いパンに載せて頬張る。
 ひと噛みごとに唸る私を給仕の女性は嬉しそうに見ながら、
 「うちの庭から捥(も)いできました」
 差し出したボウルにサクランボウが山盛りになっている。そしてビスケットにスポンジケーキ、アップルタルトに、「フォカッチャとピッツァも、ぜひ!」

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 その女性アンネッタは、大聖堂の棟続きを所有する貴族に雇われている。ふだんは、<ご主人様>のために働いているという。早朝から夕方まで、朝食の支度に始まり掃除、洗濯、アイロン掛け、買い物、銀食器磨き、と働きに働いている。土日もクリスマスもなし。給金はいくらか尋ねると、
 「月十万円弱です」
 でもこれで十分、と言い添え、  
 「多くの親戚や友人たちが、こことは違う暮らしを探して出ていきました。でもね、いくら稼いでも手に入らないものがあるのです」
 彼女の控え部屋に通されると、作業机の上には缶入りオリーブオイルやビスケット、パン、パスタがビニール袋に入れて置いてあった。不揃いの大きさや形はいかにも温かで、彼女の手作りだとひと目で知れた。
 「毎月こうして、ロンドンに移住した姪に送ってきたのですけれどね。この先もう、英国の人たちは、自由にイタリアを味わうこともできなくなるのでしょうか。気の毒に……」

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