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 谷川俊太郎という生き方
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 江藤淳『小林秀雄』は、こう始まります。「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか」と。ところが、20歳を前にした私にとっては、1行目の文章も、決して自明なものではありませんでした。とりわけ職業的な詩人がどういう存在であるかは、まるで雲をつかむような話でした。

 詩を愛する人は、たしかにいます。詩を研究している人がいることも、分かります。しかし、江藤氏ふうに言えば、「自覚的な」詩人――詩を書くことが彼(彼女)自身の「存在の問題として意識されている」詩人が、どこにいるのか。どのように暮らしているのか。詩と生活はどう関係しているのか、していないのか。具体的なイメージはありませんでした。

 大学に入学した1972年当時は、現代詩がいまよりもなお日常生活から縁遠い存在でした(比べものにならないほどでしょう)。現代詩は難解だと言われ、大手の文芸誌に掲載されることもなく、例外として、「海」(1984年5月号で終刊、中央公論社)が年に1回、「現代詩特集」を組むくらいでした。

 「詩人というと、いまの人は阿久悠だと思っています。実際、僕も『五番街のマリーへ』は好きなんですが」と吉本隆明さんが語っていたのもその頃です。そんな時、偶然にも、目を開かせてくれる2人の詩人が現われました。1人が、「考える人」夏号で特集を組んでいる谷川俊太郎さん。もう1人が、いま県立神奈川近代文学館で没後30年の企画展(*)が開かれている鮎川信夫さんです。肉声に触れたのは谷川さんのほうがわずかに早く、個人的な付き合いの濃さでいえば、圧倒的に鮎川さんでした。

 ある日、大学の仲間に誘われて、渋谷ジァンジァンで行われた谷川さんの対話シリーズを聞きに行きました。デザイナーの粟津潔さんや作曲家の武満徹さんらとのトークで、そういう文化イベントが少しずつ行われ始めた時期です。

 その頃の谷川さんはスヌーピーのマンガ『ピーナツ・ブックス』(全32巻、鶴書房)の翻訳で親しまれ、『ことばあそびうた』(福音館書店)を刊行し、『マザー・グースのうた』(全5巻・別巻1、草思社)の翻訳書を出し始める直前でした。詩集でいえば『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社)の頃です。

 聴衆の1人として間近に見る谷川さんの、明朗で、リラックスした印象を胸に刻みました。以来、接点はいろいろあったのですが、逆に近寄りがたさも感じながら、天才詩人のひとつの極として、つねに意識していたというのが正確なところです。

 対極にあったのが、鮎川さんでした。出会いについては省略しますが、「大人の付き合いだから」と言って学生風情の私とも、年の離れた友人のように、時々会ってくれました。鮎川さんが好きだった競馬、麻雀、ビリヤード、ボーリングなどには、誘われても私が興味を示さなかったので、スポーツ観戦、あとは雑談のお相手をさせていただくという交流が続きました。亡くなるまでの10年あまり。いつの間にか親しんでいた鮎川さんのものの見方、詩についての考え方などが、私の中のいわば詩人の座標軸を形づくっていきました。

 世評でも、谷川さんと鮎川さんは対照的な詩人と見られていました。谷川さんが昭和6年(1931年)生まれ、鮎川さんが大正9年(1920年)生まれですから、11歳の開きがあります。10代から詩作を始め、昭和14年(1939年)に「荒地」を創刊。戦況が悪化する中、早稲田大学を中退して出征し、スマトラ島から傷病兵として帰還した鮎川さん。昭和22年(1947年)に第2次「荒地」を刊行し、そこに北村太郎、木原孝一、黒田三郎、田村隆一、中桐雅夫、三好豊一郎氏らが同人として集います。

<たとえば霧や/あらゆる階段の跫音(あしおと)のなかから、/遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。/――これがすべての始まりである。>(「死んだ男」第一連)

 戦死した友人である詩人Mこと森川義信の思想的な「遺言執行人」として、「荒地」を主導し、戦後の詩壇を牽引していきます。「繋船ホテルの朝の歌」「橋上の人」などの代表作は、いま読んでも、この詩人の面影をたちどころに甦らせる不思議な官能性を放ちます。

 谷川さんは今回の特集にもあるように、空襲が激しくなる東京を離れ、母親の郷里である京都で、終戦を中学生として迎えます。翌年、東京に戻りますが、学校嫌いが嵩じ、大学進学の意思は消え、次第に詩作に惹かれます。

 ある日、父親である哲学者、谷川徹三さんに「この先どうするつもりか」と問い詰められ、大学ノート3冊に書きためた詩を見せます。父は一読、すぐに友人である三好達治氏にそのノートを送ります。すると、三好氏の推薦で、いきなり6篇の詩が雑誌「文學界」に掲載され、昭和27年(1952年)に処女詩集『二十億光年の孤独』(創元社)が刊行されます。思春期の孤独をうたったみずみずしい抒情は、戦後の混乱を経て、新しい時代を生きようとする人々の心をとらえます。鮮烈なデビューでした。

<谷川俊太郎の出現は、おどろきというほかなかった。それは、戦後世代の感受性が、いわば無原罪のアドレセンスを全面的に開花させる可能性を、はじめてあきらかにしたマニフェストのごとくであった。
 他方、鮎川の作品には、戦中世代の戦後的エロスが、いかなる不可能さの局限……にまでゆきついたかが、どこまでも暗く、原罪そのもののありかとして、しめされている。
 この対比のなかで、ようやく、戦後詩はみずからの<現在>をかくとくしはじめた>(菅谷規矩雄「論理のエロスをもとめて――戦後詩論概観」)

 鮎川さんとは会えばさまざまな話をしていましたが、石原吉郎氏について教えられたのも、雑談にまぎれたふとしたひと言がきっかけでした。ずいぶん後になってから詩人・石原吉郎の“発見”には、鮎川、谷川の2人が深く関わっていたことを知らされます。「文章倶楽部」(「現代詩手帖」の前身)に投稿していた石原さんの「夜の招待」という作品を見出したのが、選者であったこの2人です。

 昨年刊行された細見和之『石原吉郎――シベリア抑留詩人の生と詩』(中央公論新社)に、こう記されています。

<そのとき石原吉郎は三九歳になろうとしていた。選者の谷川俊太郎は二二歳、鮎川信夫もまた三四歳になったばかりで、石原より若いこのふたりが「詩人石原吉郎」の貴重な発見者・発掘者となったのである>

 そして、この時の「文章倶楽部」1954年10月号に掲載されている2人の合評が紹介されています。少し長くなりますが、引用してみます。

<谷川 詩そのものという感じがします。こういう詩はめずらしいと思うんです。道徳とか世界観とかいうものを詩にしているような作品の多い中で、これは純粋に詩であるという感じがしますね。この詩は詩以外のなにものでもない。全く散文でパラフレーズ出来ぬ確固とした詩そのものなんです。
 鮎川 まあそういう詩だな。
 谷川 純粋な詩というのは、えてして遊びになってしまうんですけど、この詩は純粋に詩として自足していて、そのためかえって遊びになっていない、そういう点が貴重なような気がします。
 鮎川 作者の想像力が豊かで、ちょっとメルヘン風な味もあるおもしろい詩です。作者は、窮屈な人生観、社会観などに束縛されていない。言葉自身にのびがあって、作者の想像力が自在の展開をしています。だけど、へたをすると遊びになるということは、やはりあると思うんだ。しかし、この場合は機智的なアイロニックな要素も交えて、全体がひきしまったものになっている。
 谷川 投稿詩にしてはめずらしい専門家の詩ですね。生活綴方ではない。
 鮎川 技巧的にもかなり上手ですね。
 谷川 こういうものこそ技術的と言えるかもしれない。この人はじめてですか? こういう投稿詩が出てくるということは頼もしいですねえ>

 面白い選評です。世代的にも体験的にも、シベリア抑留から帰還した石原に近いと思われる鮎川さんではなく、若い谷川さんのほうが前のめりになって、熱っぽく語っている様子が印象的です。「それにしても、投稿欄に寄せられたおそらくは膨大な作品のなかからこの一篇をいきなり『特選』に選んだ鮎川信夫と谷川俊太郎の目の利きかたにも、私たちは十分刮目しておくべきだろう」と細見和之氏は述べています。それで言えば、この2人を選者に選んだ編集者、小田久郎氏の「目」の確かさも見事でした。

 先に選者として迎えていた谷川さんの相方として「考えられるキングのカード」は、なんべん切り直しても、「鮎川信夫のほか手元に残らなかった」と述べています(小田久郎『戦後詩壇私史』新潮社)。そして、「鮎川を口説くのはかなりむずかしい」と覚悟していた小田氏ですが、「戦後詩の理念的支柱たる鮎川信夫と、そのつぎの詩の時代を担う谷川俊太郎との組合せは、これから登場してくる若い詩人たちに、このうえない希望と刺戟を与えるに違いない」と信じていました。そして、「その予感は驚くべきことに、なんとその年のうちに現実となってかたちを現わしてきたのである。石原吉郎や好川誠一、勝野睦人、それに寺山修司らの登場がそれだった」と率直に喜びを語っています(前掲書)。

 作風においても、詩人としてのふるまいにおいても、ことごとく対照的と思われた2人ですが、鮎川さんから聞く谷川さんの印象はいつも好ましいものでした。話し相手をつとめるうちに、詩について、詩人たるものの姿勢について、鮎川さんらしい考え方はある程度、理解できるようになりました。

 ただ、私生活については謎でした。どこかとらえどころのないところがありました。鮎川さんの甥っ子たちとも親しくしていましたが、彼らにとっても、その謎の部分は同様でした。連絡の窓口として秘書役をつとめていた母上が、1986年6月に83歳で亡くなり、その4ヵ月後に鮎川さんも突然、帰らぬ人となります。独身だと誰もが信じていた鮎川さんに細君がいたと、死後、判明します。それも「荒地」の同人であった加島祥造氏とある時期共同生活を送っていた英語学者の最所フミさんと、なんと1958年以来の夫婦だったと知った時は、ただただ茫然とする他ありませんでした。

 その後、牟礼慶子氏の『鮎川信夫――路上のたましい』(思潮社)や、最近刊行された樋口良澄氏の『鮎川信夫、橋上の詩学』(思潮社)で、最所さん、加島さんの発言が紹介されます。謎の一端は解明されましたが、鮎川信夫の筆名とともにあった彼の「詩的人生」を構築した、詩人の実存はますます深い霧の中へと消えていきます。

 一方、谷川さんはその点においても、驚くほどに率直です。今回の特集インタビューでは、日々の暮らしから、幼い日の思い出、詩を書くこと、女性たちとの恋愛(3度の結婚生活について)まで、じっくりお話を伺うことができました。とりわけ聞き手を感激させたのは、「谷川さんの語りの無類の率直さ」でした。

<どんなきわどい問いに対しても谷川さんは言い淀むことがありません。まっすぐに答えることが楽しそうで、対話が深まっていく。ふつうインタビューの名手といえば、聞き手ばかりを指すけれど、受ける側の名手もいるものだ、と感じ入りました>(「考える人」編集部、「波」2016年7月号)

 詩と生活について、谷川さんはかつてこういう発言をしています。

<(鮎川さんが)遊んでいることとね、書かれた詩や評論とどう繋がっているのか、よくわかんないんですよ。……どんなつまんないことをしていても、どっかでこう自分の書く世界とね、日常的世界が分かれるということが(僕は)ないんですよ。鮎川さんなんか、はっきりと違うんだ、とパッと分けるね。どうして分けられるのか不思議な気がしちゃうわけ>(「現代詩手帖」1973年6月号)

 北軽井沢の緑豊かな別荘で、リラックスして語る谷川さんを見ていると、いま何度目かの旬(しゅん)の時が訪れているのではないか、と期待に胸が高まります。そう感じるのは、おそらく私だけではないはずです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

*「鮎川信夫と『荒地』展」(県立神奈川近代文学館、会期は7月18日まで)