金貨の誕生

 では、金貨が使い始められたのはいつごろなのだろうか? 紀元前7世紀の小アジア西部にあった、リディアで用いられ始めたというのが定説だ。原料になったのは、パクトロス川で採れた砂金だというから、金貨の登場はミダス王のおかげということにもなろうか。

リディア王国の金貨(Classical Numismatic Group, Inc./ Wikipedia Commons)


 ただし、砂金には銀が含まれており、その含有量が一定しなかったため、銀を人工的に加えて金銀の比率が揃えられているという。この合金の粒を一定の大きさに切り分け、台座に置いてハンマーで叩き、文様を刻みつけることで、人類史上最初の貨幣は作られた。大きいものから小さいものまで各種サイズが用意され、取引に用いやすいよう各々の硬貨の重さは整数比で整えられているというから、当時から相当の知恵者がいたのだろう。

 「価値」を手に取れる形にし、計量を可能とした貨幣というものの誕生は、人類史上に永遠に刻まれるべき大きな出来事であった。アバウトに手持ちのものを物々交換してきたものが、貨幣を媒介とすることでデジタルに、精密にほしい品物のやり取りができるようになったのだ。

 ロビンソン・クルーソーのように、生活に必要な事柄を全て一人でこなすのは限度があり、何を作ってもそこそこのクオリティにしかならない。欲しいもの、できることを交換し、各自が得意な事柄に特化してこそ、より良いものやシステムを創り出すことができる。スムーズな交易こそは、進歩と発展の鍵だ。それを可能にする貨幣の発明は、人類が飛躍するための大きなステップであった。

 貨幣となる素材に必要な条件は、誰もが欲しがる貴重なものであること、コンパクトで持ち運びがしやすいこと、長期間変質せず、価値が変わらないこと、一定の形へと加工がしやすいことなどだ。金こそは、この条件にうってつけの素材であった。

 ただし、金貨はこの後徐々に銀にその地位を譲り渡していく。たとえば古代ローマでは、アウレウス金貨やソリドゥス金貨も鋳造されたが、基本貨幣として活躍したのはデナリウス銀貨やセステルティウス銅貨であった。金貨は高価過ぎて日常の取引には使われず、貯蓄用に用いられることが多かったようだ。

美しき三姉妹

 金・銀・銅は今も貨幣に広く用いられ、「貨幣金属」(coinage metal)の名で呼ばれる。現在の日本で用いられる貨幣は、5円玉は60~70%、10円玉は95%、50円玉と100円玉は75%、500円玉は72%の銅を含む。またオリンピックなど記念行事の際には、金貨・銀貨が発行されるのが常だ。

 実はこの3金属は、元素周期表において縦一列に並んでおり、いわば姉妹に当たる元素だ。縦に並んでいるということは性質が互いに似ているということであり、これらは化学変化を受けにくいことで共通する。ただし、銅はこの中で一番反応性が高いため錆びやすく、銀はその次、金は最も安定だ。そして銀は金の100倍ほど、銅は銀の100倍ほど天然から産出する。貨幣の価値も、存在量に反比例して決まるのは当然だろう。

周期表(佐藤健太郎『炭素文明論』所収の図版を改変)


 元素は、基本的に原子番号が大きくなるほど不安定になってゆく。金は原子番号が79で、安定に存在できる原子番号の限界である82に近い。また、一般に奇数の原子番号を持つ元素は、偶数のそれより不安定であり、存在量が少ない。さらに、地球が形成されるときに、重い元素は地下深くへと沈み、地表付近に残されたのはごく一部だけでしかない。金が貴重な金属であるのはこのためだ。現在までに採掘された金の量は、驚いたことに世界中全て合わせても、オリンピックプール3杯分ほどでしかない。

 金がもてはやされるのは、黄金色に美しく輝くことも大きい。ほとんどの金属が銀白色である中、はっきりと色づいて見える単体の金属は金と銅だけだ(オスミウムという金属は、うっすらと青みがかって見える)。オリンピックのメダルに金・銀・銅が採用されたのは、この著しい特徴によるところが大きい。

 ともかく、この美しい色合いがもたらした影響は大きかった。金と同じほど錆びにくく、金と同じほど貴重な金属である白金が、歴史にほとんど顔を出さないのとは対照的だ(白金は融点が高いため、加工しにくかったことも大きい)。金を求めて南米に侵攻したスペイン人たちは、精錬の邪魔者として白金を廃棄している。装飾品として白金が脚光を浴びるのは、ルイ・カルティエが活躍した20世紀以降のことだ。

黄金の国ジパング

 日本の歴史に金が初めて登場するのは、有名な「漢委奴国王」(かんのなのわのこくおう)の金印だろう。福岡県の志賀島(しかのしま)から出土し、後漢の光武帝が西暦57年に下賜したものと見られている。つまみの部分などに精緻な加工が施されており、側面はなめらかに仕上げられて美しく輝く。当時の人々にとっては、神の国から来た物質のように映ったことだろう。

 その後日本でも、金の鉱脈や砂金があちこちで発見された。きっかけとなったのは、仏教の伝来であったようだ。最古の仏教寺院である飛鳥寺(6世紀末建立)にも、金の延べ板などが納められている。7世紀になると各地に宮殿や寺院が次々と建設され、このため国内の鉱山開発が盛んになった。仏の教えの尊さを表現するためにも、黄金の美しさは不可欠であったのだ。

 これに合わせ、金の加工技術も進展する。東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)像、いわゆる奈良の大仏も、創建当時は全身に金メッキが施されており、現在の重厚な色合いとはイメージが全く異なる。メッキに使われた金は430キログラムというから、現在の相場に直せば20億円を超える。日本は当時、世界有数の産金国であったのだ。

 特に東北地方に産する豊かな砂金は、百年に及ぶ奥州藤原氏の繁栄を支えた。三代にわたる藤原家は京都の朝廷に金を贈ることで彼らを懐柔し、奥州を事実上の支配下に置いていた。その象徴というべき平泉の中尊寺金色堂を見れば、マルコ・ポーロが説いた「黄金の国ジパング」のイメージは、そう過大なものでなかったと思えてくる。

「えさし藤原の郷」に再現された金色堂 (tak1701d/Wikipedia Commons)


 あまり鉱物資源に恵まれない日本に、かくも豊かな金があったのは、ちょっと不思議なことに思える。これに関し、最近オーストラリアのD・ウェザリーらが興味深い説を発表している。金の鉱脈は、地震によって瞬時に形成されているのではないかというものだ。

 地下の洞穴には、微量の金や各種ミネラルの溶けた高圧の水が閉じ込められているところがある。地震によってこの裂け目が広がると、圧力が下がって水の一部が気化し、溶けていた金が結晶化して沈む。これが長年にわたって繰り返されることで、金の鉱脈が出来上がるのではないかという説だ。となれば、地震国である日本で金の鉱脈が見つかるのも、故のないことではなさそうだ。

錬金術の時代

 黄金を手に入れるべく起こされた戦争は、歴史上数多い。スペインのピサロらによるインカ帝国征服も、南米の豊かな金が狙いであった。インカ最後の皇帝アタワルパを捕らえたピサロが、身柄を返す代わりに要求したのは部屋一杯の金銀で、これはギネスブックにも載った身代金の世界記録だ。

 一方で、血を流さずして黄金を得ようとする試みも、古くから行われてきた。鉄や鉛などの卑金属から、金を作り出そうとする「錬金術」がそれだ。記録があるだけでも、ギリシャ時代にはそうした試みが行われているし、イスラム圏、インド、中国など、ほとんど文明のある限りの場所で、金を作り出すための挑戦が積み重ねられてきた。

 西洋の術士たちが追い求めたのは、「賢者の石」と呼ばれる物質の創生であった。賢者の石は卑金属を黄金に変える他、人間に不老不死の力を与えるものともされた。金を作り出すという魅力は何物にも代えがたいものがあったか、アラブの大学者ジャービル・イブン=ハイヤーン、16世紀スイスの医学者パラケルスス、そしてかのアイザック・ニュートンに至るまで、時代の最高の知性というべき人物たちが、錬金術に取り組んでいる。

ウィリアム・ダグラス画『錬金術師』


 元素の転換をフラスコ内で行なうことは、現代の目からは全く不可能で、数千年のチャレンジは全く不毛であった。しかしその過程で硝酸・硫酸・リンなど各種の化学物質が発見され、蒸留や抽出など基本的な実験技術が磨かれていったことを思えば、錬金術は化学の母胎となったともいえよう。英語で化学を意味する「chemistry」は錬金術を意味する「alchemy」から来ており、さらにそのルーツは中国語の「金(jīn)」だとも言われる。現代の化学が、金に劣らぬほど有用な物質群を多数生み出していることを思えば、錬金術士たちの努力も決して無駄ではなかったともいえよう。

 黄金の輝きは、かくも多くの人の心を惹きつけ、狂わせ、歴史の流れを突き動かしてきた。人がこの世に在る限り、黄金に魅せられる心は変わることはあるまい。哲学者パスカルは、「クレオパトラの鼻が後1センチ低かったならば世界の歴史は全く違ったものになっていただろう」と言った。では、金がもしも黄金色ではなかったとしたら――果たして世界は、このような形であっただろうか?

つづく