ドアを開けて中に入ると、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の勢いあふれる響きが耳に飛び込んできた。

 ベルリン・フィルハーモニーでの大舞台を終えた翌日も、相馬の子どもたちには休む暇がない。この日(3月11日)の夜、ベルリン日独センターで行われる公演のちょうどリハーサルの最中だった。エル・システマジャパン音楽監督の浅岡洋平の指揮により前夜とはまったく異なるプログラムが披露されることになっており、ベルリンのプロ奏者たちの助けもない。それだけに、今日は彼らのありのままの音楽を聴くことができそうだ。

 2月の相馬の子ども音楽祭から追いかけてきたので、少しずつ子どもたちの顔と担当する楽器も一致するようになってきた。私がまず探したのは、今回のツアーの最年少(8歳)参加者、ヴァイオリンの中川魁(ほくと)くん。エル・システマジャパン代表の菊川穣から事前にこんな話を聞いていた。魁くんがヴァイオリンをやることになったのは、3歳上のお兄さんの颯(はやて)くんの影響からだった。数年前、週末音楽教室が始まったとき、中川兄弟がお母さんに連れられてやってきた。そのときは颯くんだけが参加する予定だったが、魁くんが自分もやりたいと泣きじゃくり、一緒にやることになったという。初心者のバッハチームで始めた魁くんは弾ける曲がまだ限られていたが、上級生が「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を練習するのを見て、自分も一緒にやりたくて後ろで弾くふりをしていたそうだ。

ベルリン日独センターでのリハーサルの様子。©FESJ/2016/Mariko Tagashira


 この話を聞いて共感を覚えたのは、私自身、魁くんと同じ年頃のとき、小学校の掃除の時間に毎日流れていた「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」に強く惹かれ、クラシック音楽の世界に入っていったからだ。母がヴァイオリンを習わせてくれ、毎週レッスンに通うようになった。結局長くは続かなかったのだが、わずかな期間、モチベーションが最高潮に達した時期がある。私が「アイネ・クライネ」を好きだと知った先生が、毎週少しずつ手書きで譜面を書いて、この曲の第1楽章をデュエットしてくれたのだった。モーツァルトが書いた譜面を自分が弾いて、ハーモニーを生み出す一部になっていることに子どもながら感動した。が、これからというところで先生が変わり、教則本をこなすだけの元のレッスンに戻ってしまった。残念ながら、モチベーションが再び上がることはなかった。

 こういうほろ苦い経験があるので、もし自分の小学生の頃にエル・システマがあって、魁くんのようにいきなりオーケストラに飛び込んでいたら、どんな世界が待ち受けていただろうかと想像してしまうのである。魁くんが先輩たちに混じってモーツァルトを生き生きと弾いているのを見るのは楽しかった。ヴァイオリンを始めてまだ2年半でありながら弾く姿は様になっていて、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターのダニエル・スタブラヴァも目を見張ったそうだ。

 この日は「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のほか、バッハのブランデンブルク協奏曲第3番、「G線上のアリア」、さらに日本の有名な旋律によるメドレーなど、多彩な作品が並んだ。前の晩と同じくアンコールに相馬盆唄が演奏されると、もともと日本への関心が高いドイツ人が多い日独センターの聴衆は大いに沸いた。

満員の聴衆を前に行われた3月11日のコンサート。 ©FESJ/2016/Mariko Tagashira

 コンサートの休憩中、印象的な出来事があった。菊川と談笑するヴァイオリニストの眞峯(まみね)紀一郎の姿を見つけた。眞峯は長年ベルリン・ドイツ・オペラやバイロイト祝祭管弦楽団で活躍したヴァイオリニスト。終戦から間もない頃、鈴木鎮一が松本に開いた松本音楽院の第1期生でもある。そんなスズキ・メソードの申し子である眞峯は、エル・システマの子どもたちの演奏をどう感じていたのだろう。感想を聞いてみると、「音楽って素晴らしいね」と感慨深い表情で言った後、こんなことを話し始めた。

 「終戦から2、3年後、鈴木鎮一先生の講演旅行によく同行しました。当時松本に疎開していた僕は、先生に連れられて東京に行き、赤坂のとらやで生まれて初めてアイスクリームを食べたんです。あまりにおいしくて、お皿までなめたら母親に叱られてね。当時周りは焼け野原で、国会議事堂までくっきり見渡せました。鈴木先生はよく『世界の夜明けは子どもから』とおっしゃっていました。子どもの教育が何よりも大事だと」

 東日本大震災からちょうど5年となるこの日、終戦直後の東京の焼け野原を思い浮かべながら相馬の子どもたちの演奏を聴いている人がいるとは思わなかった。

 

「最初にこの話をいただいたとき、エル・システマというぐらいだからベネズエラの人が発展させた何か機能的なメソードがあって、それを僕が子どもたちに教えればいいのだと思っていました。ところが、『そのようなメソードはない。ないけれどもそれがエル・システマだ』と言われて、『え?』と思ったんです」

 こう語るのは前述の浅岡洋平。この夜の演奏会の後、私は初めて浅岡と言葉を交わすことができた。初心者の子どもが、いきなりオーケストラに参加してモーツァルトやベートーヴェンの世界に触れられるのは素晴らしい。だが、一体どうしてそんなことが可能なのか、そして浅岡はどういう理念に基づいて子どもたちと音楽を作っているのか、私にとって興味のあるテーマだった。

「一般的に考えられている子どもオーケストラは、セミプロかプロを目指す子どもにオーディションを行って集めるのがスタンダードな形です。でもここではそうじゃない。オーケストラに入ることから始める。そこでまったく初めての子を集団でトレーニングする。そのためのメソードは実はどこにもない。じゃあベネズエラで使われているメソードは何かというと、スズキ・メソードなんです」

 1970年代、鈴木鎮一の直系の弟子にあたるヴァイオリニスト、小林武史がベネズエラでスズキ・メソードを広めたという話は私も読んで知っていた。「考える人」の河野通和編集長もメルマガで紹介している

 では、エル・システマジャパンもスズキ・メソードを取り入れているのかというと、そうではないらしい。

 浅岡が説明してくれたところによると、スズキ・メソードといえば子どもたちが一緒に「きらきら星」を弾く姿が有名だが、これはいわばホモフォニー(単声音楽)の練習である。ここでは1つの旋律ラインしか学ぶことができない。それに対して、例えばこの日、相馬子どもオーケストラが演奏したバッハのブランデンブルク協奏曲第3番は、ポリフォニー(多声音楽)として複数の旋律が声部間を行き交う。模倣、カノン、フーガなどが複雑に絡み合う構造を持っており、それぞれの楽器、セクションが互いにコミュニケーションを取りながら旋律・和声にと柔軟に役割を演じなければならないわけである。

 スズキ・メソードを取り入れないというよりは、こういったオーケストラのスキルを学ぶメソードがそもそも存在しないので、自分で考えるしかないということのようだ。

 「技術を求めてというのはどこでもやられているし、専門的に勉強した先生を集めて教育させれば音楽大学のレベルにはなります。ところが、音楽を専門に勉強している子たちの中で音楽に没頭している子が実は少ないという逆説的な状況が生まれている。職業的音楽家を目指す中で、音楽への愛を両立するのが難しくなるんです。競争社会なので、若いうちから好き嫌いで計れなくなってきてしまう。じゃあ、音楽の本質は何なのか。作品が与えてくれるものを問いつめると、それはやはり人間愛なんです。芸術の目的は人間の属性の良い部分を賛美する、讃えることにあると僕は感じています。そこをメインに置いた教育をしようと思いました。つまり技術じゃない。教える側にしては苦しいところです。技術的なことを求めた方が具体的だし、積み上がるものが見えるわけですから。でも、技術が巧みになり、上手だと思って弾いていると、それは音楽の本質から外れてしまう。自分自身がかつてそういう演奏をしていた反省もあります」

 もちろん基礎技術習得のためにはどうしても反復練習が必要になる。エル・システマジャパンではその過程も重視しているが、浅岡が合奏を指導するときは曲の構造と楽器のセクション間のコミュニケーションを中心に教えている。

 「僕は作曲家が楽譜に書いたもの、楽譜は生理的にどういう風に作用し、その背景に作曲家が何を意図して書いているのか、ということを解説して教えています。何より大事なモチベーションは音楽をする喜びですが、その喜びは本能的、生理的な快感だったりする。リズムそのものを感じたり、音の動きをアピールすると子どもたちは夢中になります。
 上手に弾くことを体の使いかたとして、つまり体と楽器の機能の融合として教えると実は難しくないんです。いくつもの音をいっぺんにやろうとするからできなくなる。子どもたちは難しいと思ってやっていません。それがかなりうまくいっている部分でしょうか。『大変だから毎日練習しなよ』という話は一切しません。『できるかできないかは自分次第だから好きでいいよ。練習も嫌なときはやらなければいい』と」

 浅岡は唯一の「正解」を教えるのではなく、子どもたちの内側から音楽を求める欲求を育むことを何より大事にしているように感じた。創設者のアブレウ博士がエル・システマの本質を指して言った「存在するけど、まだかたちになっていない」という言葉を思い出す。教授法も「システム」として定義したら、「その日からその命は消えてしまう」。浅岡自身、試行錯誤しながらこの挑戦を楽しんでいるようだ。

 

 エル・システマジャパンとスズキ・メソードを比較すること自体はあまり意味がないかもしれない。だが、どちらも日本という国の大きな危機の後に生まれたという事実は、私の興味を惹く。子どもの可能性を信じ、環境が子どもを育てるという理念も両者に共通している。まだ生まれて4年だが、エル・システマジャパンの申し子たちも少しずつ育ってきているようだ。

終演後、ベルリン・フィルの元第1コンサートマスター、安永徹さんが最後に出演したIPPNWコンサートのCDを子どもたちにプレゼントするペーター&イングリッド・ハウバーさん夫妻。©FESJ/2016/Mariko Tagashira


 演奏会後、軽い夕食をとりながら、眞峯を囲んでこんなやり取りがあった。エル・システマジャパンの支援者で今回のベルリン公演を聴きに来たある女性が、中学1年生のヴィオラの伊藤七海さんから楽器を借りて、弾く仕草をしてみた。「なかなかセンスあるよ」と言う七海さんに、「じゃあ私、才能あるかな?」と聞いたこの女性に対して、七海さんはためらわずにこう言ったという。

 「才能は誰にでもあるのよ!」

 その話を眞峯は嬉しそうな表情を浮かべながら横で聞いていた。
 「僕は鈴木先生の松本での第1期生ですが、周りは普通の家庭の子どもばかりでエリートなんていなかった。あの頃は自分が一番の落伍者だったけれど、気付けば僕が一番長く音楽を楽しんでいる。子どもたちには厳しくし過ぎて音楽を嫌いになってほしくないですね」

 日本で生まれたスズキ・メソードを取り入れたベネズエラのエル・システマ。そして、ベネズエラから日本に渡ったエル・システマジャパンは、創設者のアブレウ博士の理念を受け継ぎながらも、少しずつ独自の道を歩み始めている(ちなみに、相馬に続いて始まった岩手県大槌町の活動ではスズキ・メソードの教師が子どもたちを定期的に指導しているという)。音楽の本質はいつの時代も変わらない。合奏の喜びを一人でも多くの子どもが味わえれば、彼らはそれを生きる力に変えていくはずだ。