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末盛千枝子『「私」を受け容れて生きる――父と母の娘』(新潮社)

人生は不思議に満ちている
 
 「人と人との出会いは必ずその痕跡を残す」――本書を書いている間、この遠藤周作氏の言葉が、「ずっと通奏低音のように心に浮かんで」いたといいます。今年で75歳を迎えた著者の自伝的エッセイは、さまざまな“出会いの痕跡”がひとつひとつ愛おしむように描かれていて、読む者にとっては贅沢この上ない1冊です。私自身、読み終えてからほぼ3ヵ月、静かな余韻にひたりながら、とても幸福な時間を過ごしてきました。

  絵本づくりのプロとして著者の名を内外に広く知らしめたのは、自ら立ち上げた絵本出版社「すえもりブックス」の初期の企画として、皇后美智子さまが英訳されたまど・みちおさんの詩集『どうぶつたち』を、1992年に日米で共同出版した時です。2年後に、まどさんが日本人として初の国際アンデルセン賞作家賞を受賞。大きな話題を呼びました。その後も、1998年、ニューデリーで開かれた国際児童図書評議会(IBBY)世界大会での皇后さまの講演録『橋をかける――子供時代の読書の思い出』(現在、文藝春秋)を刊行するなど、皇后さまとの貴重な交流は、本書の中でも白眉の章をなしています。
 
<お話の中で、皇后様は読書を通して、他の人の悲しみを知り、喜びを知り、愛と犠牲が分ちがたいということを知ったこと、そして、誰しも、何らかの悲しみを背負って生きているということを小さい時に知ったと、『でんでん虫のかなしみ』を引用して語っておられる。そして読書には、人間を作る「根っこ」と喜びに向かって伸びようとする「翼」があり、ご自身が、外に内に橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げながら育っていくときに大きな助けとなった、と日本の神話にも触れてお話しになられた。本当にすばらしいご講演だった>
 
 著者自身もまた、「私の人生はまるで絵本とともにあった。いつも絵本が助けてくれたと言ってもいいくらいだ」と言い、絵本はいつも身辺にあって、「希望を語るものであり、悲しむ子どものそばに寄り添ってくれるものだった」と感謝の言葉を述べています。美しい絵本を送り届ける仕事に携わってきた喜びと誇りは、本書全体に溢れています。

 ただ、書名が示唆しているように、著者自身が辿ってきた道のりは必ずしも平坦なものではありませんでした。むしろ辛く、悲しく、耐えがたい出来事に次々と遭遇しています。
 

 父は、キリシタン弾圧をテーマにした「長崎二十六殉教者記念像」「原の城(はらのじょう)」などで知られる彫刻家の舟越保武氏。「清貧」という言葉がまさにふさわしい芸術家の家で、著者は6人きょうだいの長女として育ちます。しかし、戦争の時代をはさんで、彫刻という仕事だけで家族8人が食べていくのは容易なことではなく、父を尊敬しながらも、「絶対に芸術家とだけは結婚するまい」と心に決めていたそうです。

 大学卒業後、欧米に絵本を輸出する出版社に勤務しますが、30歳で結婚退職。ところが、幸せな結婚生活が12年目に入ろうとした矢先、夫が急死し、手もとには8歳と6歳の息子が残されます。長男は生まれつきの難病を抱え、後にはスポーツ事故による障害で下半身不随になります。夫の死後、独立して作った「すえもりブックス」は経営に苦しみます。再婚した夫の介護と看取り。2010年、会社をたたんで、父の郷里岩手に移住した翌年、東日本大震災。

 ひとりの人間が抱え込むにはあまりに重い試練が、次々と著者の身に降りかかります。それでも「私」という運命から目を背けることなく、決してあきらめないで、前を向いて生きてきました。
 
<困難の真っただ中にいる時には分らないのだけれど、いつの間にか、その困難から抜け出ていることに気がついたときの喜びは、例えようがない。しかも、その幸福は、その困難があったからこそ与えられているのであり、それこそが、不幸のように見える幸福ではないかと思う。
 どんなに困難に満ちているように見える人生でも、生きるに値すると思うのはそのためである>
 
 それを今ようやく実感するようになったのは、年を重ねることのありがたさだとも述べています。本の副題が「父と母の娘」とある意味も、歳月を経るにつれ、そのことが次第に輝きを増してきたからだと思います。この両親の娘であることが、どれほどかけがえのない喜びであるか。困難を乗り越えてきた今だからこそ、一層強く感じられているのです。
 
 
<……厳しい家庭環境に育ったからこそ、かえって明るく楽しいことに憧れる気持ちは、人一倍強かったと思う。父でさえそうだった。貧しいなかでも、生きていく上で、どのようなことを良しとするか、人生で美しいとはどのようなことかを、厳しく教えられた。多くの時間をかけ、身を削るようにして制作した二十六聖人殉教者記念像や、ダミアン神父の像を通して、父は、結局はそこに人間としての至高の美しさを見ていたのだろう。それは十分に私たちに伝わっていた。
 自宅のアトリエで仕事をしているわけだから、制作の途中で、いろんな話を聞かされた。日常に起こるほとんど他愛のないけれど楽しいことも、気がつくと、みんなで披露しあったような気がする。父は、落語が好きだった。
 私がよく憶えているのは大理石の仕事の時の父の姿だ。父は大きく硬い石の固まりに一心不乱に鑿を振るい、体中石の粉で真っ白になりながら、その粉が目に入らないように、ツルの壊れかかった素通しの眼鏡をかけていた。時には、朝まで仕事を続けて、出来上がった作品を依頼主や、画商に届けにいく。それを見ながら、母はいつも、「私たちはお父さんの仕事を手伝うことはできないのだから、せめてお父さんが気持ちよく仕事ができるように、協力しましょう」と言った。あれは、母がまず自分に言い聞かせていたのではないかと思う>
 
  20代の半ば、初めてヨーロッパを旅した際のエピソードが印象的です。スイスに行き、登山鉄道でユングフラウヨッホに登った時です。今にも降り出しそうな空模様なので出発を迷っていました。宿の奥さんが「山の上は晴れているからぜひ行ってきなさい。お弁当を作ってあげるから」と勧めます。大枚50ドルをはたき、祈るような思いで鉄道に乗りますが、またたく間に土砂降りになり、猛烈に後悔した著者は、下りの電車に飛び乗って、すぐにも引き返したくなります。
 
<ところが、もう少し登ると、辺りが急に明るくなり、あっという間に、電車は雲の上にでた。光輝くアルプスの峰々が、雪を頂いて、手が届きそうなほど近くにあるのだ。なんということだろう。……
 登山鉄道はアイガー北壁の中のトンネルを抜け、終点のユングフラウヨッホ駅に着いた。私は人ごみを避けて雪の上に座り、全身に陽を受けて宿屋の奥さんの作ってくれたサンドイッチを食べた。見渡す限り雲一つなく、雲上の世界に広がるアルプスの山々を心ゆくまで眺め、今日のことは一生忘れまい、自分の胸にしっかり焼き付けておこうと思った。
 信じること、希望し続けることという意味で、この光景は、私の人生の北極星のようなものになった>
 
  家族愛に結ばれた舟越家には、ひとつの悲しい出来事がありました。1948年4月、著者が小学2年生だった時、一家に初めて生まれた男の子が生後8ヵ月で世を去ったのです。「水仙の花」という舟越保武さんのエッセイがあります。赤ん坊だった長男が死んだ。じっとしていてはいけない。自転車を漕いで親戚の家に行くなり、「赤ん坊が死にました。花を下さい。なるべくたくさん下さい」と言います。それを聞いた従兄は、庭にたくさん咲いていた黄色い水仙を、ほとんどみんな伐ってくれます。
 
<花をいっぱいに棺の中にうめた。黄色い花いちめんの中に、一馬の顔だけが見えた。
 花の中から、小さな顔と、合掌した小さな手だけが見えた。眼のまわりが、うす青く、西洋人形のようだった>(「水仙の花」、『舟越保武全随筆集 巨岩と花びら ほか』(求龍堂)所収)
 

 この出来事がきっかけで、家族全員がカトリックの洗礼を受けます。「あの頃は、誰にも分からなかったが、弟の死と洗礼は、家族全員にとって、確かな転換点となった」とあります。やがて疎開生活を終えて、東京に帰る時、母親は「さようなら盛岡よ」という詩を書いています。「春には山吹の咲く/小さな一馬(かずま)のおくつきよ/すべてのものよ さようなら」――。
 
<母は女学校をでた後、女子美術専門学校に入ったが、体を悪くして退学し、その後入学した文化学院時代に父に出会い結婚した。父は二十八歳、母は二十四歳だった。その頃、母はすでに俳句の世界では知られるようになっていたらしいけれど、父のたっての頼みで文学を諦めた。父が泣いて頼んだという。母は、そのことを子どもたちにはあまり言わなかった。女々しいことだと思ったのかもしれない>
 
  人生や芸術に対して厳しい考え方をする一方で、「とても自由に物事を考える人だった」とも言います。教会で、韓国人と結婚した日本人女性と出会った時、彼女が戦後間もない時期に、白いチョゴリを着ている姿を見て、「どれほど勇気が必要で、どれほど素晴らしいことかと、母が心からの尊敬を込めて話していた」と著者は記します。東日本大震災後に評判を呼んだ句集『龍宮』の作者、岩手県釜石市在住の照井翠(てるいみどり)さんは「母の友人だった」ともあり、人と人とのつながりの不思議さをここにも感じます。

 本書を貫く優しさ、向日性、ユーモアは、まさにこの父、この母の娘であったことの証であり、どんな困難のさ中にあっても、「私は、この峠を越えたら、また何か考えてもいなかったような展望が開けるのではないかと……あのスイスの山のことを思っていた。楽天的とも言える私のこの性格は、貧しいなかでも懸命に自分の理想を追った父と母、特に父を支えた母の強さと素直さをみて育ったからだと思う」と語ります。

 さて、著者の最初の夫であり、1983年、54歳の若さで急逝した末盛憲彦さん。テレビ草創期の名番組「夢であいましょう」などを手がけたNHKディレクターでしたが、著者をして、「私は大家族の長女で、いつも五人の弟妹達の世話をし、心配をしているようなところがあったのだけれど、結婚して初めて、本当に大切にしてもらっているという実感が生まれた」と言わしめた存在です。「穏やかで温かい彼に守られ、安心し切ったかのように私は初めて人に甘えていた」、「彼が亡くなったとき、私は『なんだ、神様は私に彼を十年間貸して下さっただけだったのか……』と思ったほどだった。いや、本当にそうだったのかもしれない」と。

 それだけに、子どもたちには、「パパが突然亡くなったことは、私たちにはまだ解らないけれど、きっと、神様のご計画で、何か意味があり、このことによって、私たちは、これからの人生に何かの使命を与えられているのだと思う」と伝え、自らは「すえもりブックス」を立ち上げます。「人を幸せにする」という夫の松明を引き継ぎたい、という強い思いがあってのことでした。

 その夫の死から10年近く。大学時代にカトリックの学生サークルで指導司祭として敬愛していた古田暁(ぎょう)氏から、「私が駄目になる前に来て下さい」という葉書が、突然送られてきます。入院先の病院からでした。
 
<考えこんだものの、結局はベランダに咲いている何種類もの小さな花を色どりよく摘んで、私は病院に向かっていた。なるべく何気なく振る舞おうと、覚悟を決めて病室に入ると、小さな声で「あっ、来た」と言うのが聞こえた。不思議な再会だった>
 
 それから何度も危険な状態に陥る氏の世話をするうちに、やがて再婚を決意。1995年、正式に夫婦となります。中世キリスト教の研究者である古田氏の翻訳書の出版を手伝うなど、穏やかで、新たな刺激に富んだ日々が訪れます。しかし2006年、脳出血に倒れて以後、夫の体の自由は徐々に奪われます。そして移住した先の岩手で、2013年に永眠。その気持ちの整理もあって、本書の執筆は始まっています。

 千枝子という名前は、高村光太郎訳『ロダンの言葉』を読んで彫刻家を志した父親が、まったく面識もなかった高村氏を突然訪ねて、つけてもらったのだといいます。「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」と言って、半紙に「千枝子」と書いて下さったと、著者は何度も聞かされます。
 

<父に尋ねたことはないけれど、いまになって考えてみると、父は彫刻家としてやっていこうと覚悟を決めた自分を励ますために、初めて生まれた娘にどうしても高村さんに名前を付けていただきたいと、よほどの思いで高村さんを訪ねたのだろうし、高村さんも、困難な人生になることは目に見えている若い彫刻家の願いを聞き入れようと思ったのではないだろうか。父はどんなに感激したことだろう。
 何より、その時、智恵子さんが亡くなってから、三年しか経っていないのだった。智恵子さんは高村さんの内に外にまだ、生々しく存在していたに違いない。愛する人に死なれて三年とは、そういう時間なのだ。『智恵子抄』は、私の生まれたこの年に出版された>
 
  後年、高村氏に「この子があのときに名前をつけていただいた千枝子です。三年生になりました」と紹介される機会があったといいます。すると、高村氏は頭をなでて、「おじさんを覚えておいてくださいね」と言ったそうです。この話を父は娘に何回も話します。
 
<それは、小さい子に「大きくなったね」とか「元気でね」というような言葉を掛けるのとは全く違うことだろう。今になって、「おじさんを覚えておいてくださいね」という言葉を掛けずにはいられなかった人を思う。父も、そんな高村さんの思いを貴重に思い、繰り返し話してくれたのではないだろうか。そして、私はいまやっと「あなたにとってあんなに大切だった智恵子さんの名前から、千枝子と名付けて下さったことを本当に有り難く、とても大切に思います」と心から言える。七十年以上もかかってしまった>
 
 これまで辛いこと、悲しいこともたくさんあったけれど、それらはどれも、今の「私」にたどり着くために必要なことだった。神の不思議な恵みが、ここまで私を導いた――と、著者は「今なら心から言える」と振り返ります。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
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