インド大乗仏教の掉尾を飾る密教、その代表的な経典『大日経』『金剛頂経』等から、その思想的核心を抽出して理論化したのは、インド人僧でも中国人僧でもなく、空海(七七四~八三五)である。それは同時に、日本において初めて、思想と実践の全体におよぶ形而上学的体系を樹立したのが空海だということである。
 密教の思想的パラダイムは、ウパニシャッド以来のインド思想である、梵我一如(宇宙の原理であるブラフマンと個人の原理であるアートマンの一致)の応用である。つまり、密教の教主として宇宙の真理を体現する大日如来と肉身の修行僧との一体化を認識し実践することが、悟りであり成仏することだと考えるのである。

空海

「三密とは、一には身密、二には語(口)密、三には心(意)密なり。法仏の三密は、甚深微細(じんじんみさい)にして等覚(とうがく)・十地(じゅうじ)も見聞すること能わず、故に密と号(い)う。一一(いちいち)の尊、等しく刹塵の三密を具して互相(たがい)に加入し、彼此摂持(ひししょうじ)せり。衆生の三密もまた是の如し。故に三密加持と名づく。
 もし真言行人有って、この義を観察して、手に印契(いんげい)を作(な)し、口に真言を誦し、心、三摩地(さんまじ)に住すれば、三密相応して加持するが故に、早く大悉地(だいしつじ)を得」(『即身成仏義』)

「大悉地」とは「成就」の意味で、大日如来の境地に達すること、その境地において得られる超能力を言い、成仏と同義である。
 ここでは要するに、身と口と心において、手に印契、口に真言、心に禅定(三摩地)を実践すれば、そのまま成仏すると言っているのだ。したがって、この場合の成仏とは、以下のように理解される。

「如来の法身と衆生の本性とは、同じくこの本来寂静(じゃくじょう)の理を得たり。然れども衆生は、覚せず知せず。故に仏、この理趣を説いて、衆生を覚悟せしめたもう」(同前)

 如来の本質としての真理と衆生の本性は同じものでありながら、衆生はそれを認識できないから、如来がそれを悟らせ、修行によって成仏させようというのである。

独自の言語論

 形而上学は、現に存在するものがそのように存在する根拠や原理を明らかにする思想である。ならば、この思想は、言語が意味するものを「実体」と考えなければ成り立たない。
 「机」という言葉が個々様々な形態・材質の机すべてに通用するのは、その意味するものが、個々の机を机ならしめている「根拠」「本質」だからである。これを言い換えれば、現実にそこにある机の「実体」のことであり、言葉の意味はそれを表している……と、考えなければ、形而上学は成立しないのである。
 空海はこのことを明瞭に自覚した上で、言語が「実体を表す」のではなく、言語が「そのまま実体」であるという、極めて独創的な言語理論を構築した。つまり、如来の言葉は何かを表すのではなく、そのものを出現させる。真理は、如来の言葉、すなわち「真言」で現実になるのである。

「夫れ如来の説法は、必ず文字に藉(よ)る。文字の所在は、六塵(引用者註 色・声・香・味・触・法)その体なり。六塵の本は、法仏の三密、即ち是れなり。平等の三密は、法界に遍じて常恒なり」(『声字実相義』)

 この文章が言いたいことは、次のようなことだろう。
 如来が法を説くというとき、その言葉は、我々が認識している対象世界(「六塵」)に現実に存在している。つまり、音声とか字体として、我々は経験している。
 その経験可能な対象世界の根源は、如来の身体・言葉・心の活動(「三密」)である。この三つの活動は、如来の説く真理の世界に行き渡って永遠である。
 ならば、文字=現実世界=如来の活動という理解が成り立つ。ところが、衆生は愚かだからそれがわからない。だから、仏は声と文字を用いて、改めてそれを教示しなければならない。

「名教の興りは、声字に非ざれば成ぜず。声字分明にして実相顕わる」(同前)

 「名教」は如来の教え、「実相」はこの場合「真理の現れ」の意。つまり、如来の説く真理は、その声と字が明瞭であるとき、そのままこの世界に現実化するというのである。このことをサンスクリットの「阿(a)」字を例に解説する。

言語と存在の一致

 空海は言う。

「阿字門一切諸法本不生(ほんぷしょう)とは、凡そ三界の語言は、皆、名に依る。而して名は字に依る。故に、悉曇(しったん)の阿字もまた、衆字の母とす。当に知るべし。阿字門真実の義も、また是の如し。一切法義の中に遍ず」(『吽字義』)

 「阿」字の教えとは、およそ存在するあらゆるものは、本来生じたり生じなかったりすることのない、根源的な実体として存在するのだということである。
 それはあたかも、この世界の言語がすべて概念(「名」)によって成り立っていて、その概念は文字に依存している。その文字の始源が、人間が自然に口を開いて発生する最初の音「ア」(「衆字の母」)であることと同様である。
 「阿」字の教えの真理もまた、存在するものすべての本質的意味として遍在する。

「所以は何となれば、一切の法は衆縁(しゅえん)より生ぜざること無きを以て、縁より生ずる者は、悉く皆始有り、本有り。今この能生の縁を観ずるに、また衆因縁より生ず。展転(ちんでん)して縁に従う、誰をかその本とせん。是の如く観察する時に、則ち本不生際を知る。是れ万法の本なり。猶し一切の語言を聞く時に、即ち是れ阿の声を聞くが如く、是の如く一切の法の生を見る時、即ち是れ本不生際を見るなり」(同前)

 これはどういうことかというと、存在するものすべては、因果関係の連鎖で生じるわけだから、必ず最初の原因があり、根源的実体がある(「悉く皆始有り、本有り」)。そのような根源的で不変の実体(「本不生際」)は、すべての言語における「阿」字の意味と同じである。このように考えるとき、すべての存在の根源的在り方、すなわち真理を認識するのだ。

「もし本不生際を見る者は、是れ実の如く自心を知る。実の如く自心を知るは、即ち是れ一切智智なり」(同前)

 もしこの根源的在り方を認識するなら、それは認識するもの自らの在り方(「自心」)を知るのであり、これこそが如来の絶対智なのである。
 空海はここで、「阿」字と「存在の根源」を並べて比較対照し、意味的に同じようなものだと言っているのではない。両者は一致しているのだ。それこそ「阿」字の意味が「一切法義の中遍ず」という一文の主張なのである。つまり、如来の「真言」である「阿」は世界の開闢を意味する記号(声や字)ではなく(それは我々の日常言語である)、まさにその発声や書字において、如来の世界は開闢するのである。

超越の溶解

 最澄の法華一乗の思想や大乗戒壇の建立、あるいは空海の完成した密教理論は、『古事記』的アニミズムを反映、あるいは内包する「ありのまま」肯定のアイデアとは、確かに異なる。
 中国への留学僧であった二人は、それぞれに当時最新の仏教思想(特に密教は最先端)を持ち帰り、それらを元に日本初の超越性の高い形而上学的思想を組み上げたのだ。
 しかしながら、誰もが成仏し得るとする一乗思想、それにもとづく僧俗の区別を理論的に無意味化する大乗戒のアイデアは、「ありのまま」の肯定に理論的根拠を与え、「ありのままが真理」という思想の原型を構成するだろう。
 空海の思想的核心である「即身成仏」のアイデアも、『古事記』の人的神、神的人、「現人神(現神)」の密教版と言えないわけでもない。「神」が事情によって人と成ってこの地を統治したように、所定の修行という手続きを踏むと、その成仏が「ありのまま」に実現するのである。
 先に見た仏教伝来の経緯から降って、最澄や空海の思想を概観すると、日本においては、超越的理念が実存を根拠づけるという様相で機能するのではない。地縁血縁共同体に規定された実存が超越的理念を吸収して「ありのまま」の中に溶解し、「ありのまま」こそが真理として超越化するように見える。さらに言えば、吸収され得る超越的理念しか受容されず、根付かないだろう。
 この「ありのまま」が真理として超越的理念化する思想こそ、初めて日本オリジナルと言い得るような形而上学として現れた、「天台本覚思想」である。(つづく)

引用文献:『空海コレクション2』(ちくま学芸文庫)