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関川夏央『人間晩年図巻 1995-99年』(岩波書店)

ゆく河の流れは絶えずして

 古今東西、約900人の著名人の死に際を、没年齢順に浮かび上がらせた山田風太郎『人間臨終図巻』(徳間文庫・角川文庫)の試みを引き継いで、1980年代後半から現在まで約30年間の、わが同時代人たちの晩年の姿を描くシリーズの1冊です。

 本書よりもわずかに早く、実は「1990-94年」の巻が出ているのですが、それよりも先にこちらのほうに手が伸びました。理由は明らかで、1995年は阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた年、またWindows95が登場して、本格的なネット時代が到来した節目だからです。これが日本社会の大きな転機だったと、いまにして改めて感じます。出版界全体の売上げが96年をピークにして、徐々に下がり始めるのもこの時期です。

「作家が死ぬと時代が変わるんだよ」と言ったのは、中央公論社社長だった嶋中鵬二(ほうじ)氏です。その時念頭にあったのは、1970年11月25日に亡くなった三島由紀夫氏のことでした。本書でそれをしみじみ感じるのは、1996年に死去した司馬遼太郎氏と、1999年の江藤淳氏(作家ではなく、文学者という括りになりますが)についてです。
 
<一九九〇年代後半は「オンリー・イエスタデイ」にすぎないはずなのに、遠い昔のように思われる。時の流れは、水の流れよりも静かにはげしい。立ちすくむうちに私たちは老いる。……
 この本に登場するのは、そんな、静かな劇的変化の時代に「晩年」を生きて死んだ人たちである。「逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎(や)めず」の思いに襲われる>(あとがき)
 
 時が過ぎ去るのは速いものだ。昼も夜も止まることがない――というわけですが、他にどんな人たちの「晩年」が紹介されているかというと、1995年に死んだ人では、俳優の金子信雄、歌手のテレサ・テン、96年では横山やすし、金丸信、フランキー堺、渥美清、97年では藤沢周平、〓(とう)小平(*1)、萬屋錦之介、勝新太郎、ダイアナ妃、伊丹十三、三船敏郎、98年ではポル・ポト、棋士の村山聖、村山実、木下恵介、99年では俳優の芦田伸介、映画監督のスタンリー・キューブリックといった顔ぶれです。その他、知名度はさほどでなくとも、私たちの脳裏に刻まれた事件やニュースの当事者たちも、著者の「記憶と好み」で取り上げられています。

 さて、司馬遼太郎さんですが、すでに『司馬遼太郎の「かたち」』、『「坂の上の雲」と日本人』(ともに文春文庫)などの著作を持つ著者だけに、最晩年の「それまでとは別人のように気短かになっていた」司馬さんの、この国の現状に苛立ち、怒りを隠そうともしなかった壮絶な死のありさまを的確に伝えます。思えば、三島由紀夫割腹事件の翌日に、毎日新聞の一面を費やして「三島由紀夫への献辞と批判」が掲載されたあたりから、司馬さんの発言には世論に対する指導的な役割が期待されるようになりました。
 
<その頃から日本のジャーナリズムは、どんな問題であれ、まるで炉辺に座した知恵ある老人にすがるように司馬遼太郎に意見をもとめるようになった。司馬遼太郎もまた、自分が生を享(う)け、自分が愛した日本への責任感からか、「困ったときの司馬さん頼み」に懇切にこたえようとつとめた>
 
「文藝春秋」の巻頭随筆として連載された「この国のかたち」は、司馬さん亡き後、阿川弘之氏の「葭(よし)の髄から」、立花隆氏の「日本再生」などに引き継がれていますが、司馬さんのように親しまれ愛された「国民作家」、諸事万般のご意見番的存在はいまだ空席のまま推移しているのが実状です。
 
<一九九六年二月十二日午後八時五十分、史上最高の歴史青春小説の書き手にして、晩年の十年間は強烈な「憂国」の思いを発しつつ「この国のかたち」を書きついだ偉大な作家、司馬遼太郎は亡くなった。七十二年六ヵ月の、はなばなしくも実り多い生涯であった>
 
 かたや、江藤淳氏は1999年7月21日、前年11月に逝った夫人の後を追うように、自死の道を選びました。亡くなった夜のいつにない豪雨の記憶はおぼろですが、あまりに突然の出来事に、通夜の帰り、鎌倉駅近くで憮然とした表情の人たちと、遅くまで杯を重ねたことは忘れられません。本書には旧制湘南中学で江藤氏の一学年上だった石原慎太郎氏の回想が引かれています。

 中学時代、サークルの仲間とともに、ある一高教授を訪ねた帰り道。「小柄で生意気で弁が立つ『とっちゃん坊や』的風貌」の江藤氏の“独演会”に付き合わされた腹いせに、「私は連れだった他の仲間に、あんなにませきった奴は将来たぶん評論家にしかなりおおせはしまい」と予言したそうです。

 もうひとつは、お互いに文壇デビューを果たした後、出版社ですれ違った際の逸話です。
 
<江藤というその名からすぐに、今の男がかつてのあのこまっしゃくれた江頭(えがしら)少年だとわかった。そして、あの江頭が、かねて私がいっていたようにまさしく評論家になりおおせたのだなと納得し、自分の予見の当たったことに満足していたものだ>
 
 まさに江藤さんは、どこから見ても才気煥発な評論家でした。どんな難題であろうと切れ味鋭く読み解いてみせ、同時に過敏で複雑な感性の持ち主でもありました。生前の活躍に比して、2009年の没後10年は驚くほどに静かに過ぎました。いまようやく平山周吉氏の「江藤淳は甦える」という連載(「新潮45」)が回を重ねているとはいえ、華やかな全盛期を知る者にとっては、その空席を埋める存在がいっこうに現われる気配がないことに、社会の本質的な変化を感じます。

 書斎の机には、原稿用紙1枚、5行の遺書が残されていました。
 
<心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。>
 
 遺書が書かれたであろう「同日同刻」の、著者の行動が記されています。
 
<私(関川)はその日夕方、有楽町のよみうりホールにいた。講演を終えて帰ろうとしたが、暴風雨で帰れない。電車も一時運休となった。編集者と喫茶室で雑談して天気の回復を待った。そのときの話題は偶然江藤淳のことであった。(中略)
 嵐はいっこうにおさまらない。しびれを切らして喫茶室を出たのは午後七時少し前であった。その頃、江藤淳は遺書を書き、自宅風呂場へ向かおうとしていた。
 あの雨さえなかったらなあ――と石原慎太郎は長い弔文に書いた。
<身寄りも無く他に失うものは自らしかないような孤独に老いた男にとって、あの久し振りの天変地異は通り魔のように彼を引き裂き、死に向かって誘い追い落としたに違いない>>
 
 重苦しい話が続いてしまいましたが、“棺を蓋いて事定まった”死者の輪郭を通して、1990年代後半の時代相を浮き彫りにしているのが本書の特徴です。文明開化の昔から、激しい変化を繰り返してきたのが日本社会の特徴ですが、それをさらに早回しにして、凝縮したのが、高度成長期の日本でした。聖も俗も、正義も悪徳もごちゃまぜになったような混沌とバイタリティが基本でした。

 ちょうど1年前、「食」を切り口に戦後70年を振りかえる座談会に、著者にも参加してもらいました。出席者の一人の山口文憲さんが、自分たち世代はあまり食に固執しない、なぜなら「子供時代を過ごしたあの高度成長期以来、これでもかこれでもかと、ほとんど暴力的にそのときどきの新しい味を教え込まれてきているからね。味覚のメモリーがつぎつぎに『上書き』された結果、いつも『いま食べたいもの、飲みたいもの』しか思いつけなくなっているのかもしれない。困ったな」と発言しました(*2)。

 まさにそういう目まぐるしさ、受け身の慌ただしさが「戦後」という時代でした。その終焉が、しかと気づかないうちに、この時期に訪れていたのかもしれません。1997年に亡くなった伊丹十三氏の死を、その象徴してとらえているのは、著者ならではの卓見です。
 
<伊丹は『ヨーロッパ退屈日記』のなかで「私はくわせものだ」「空っぽの容れものだ」といっている。「くわせもの」はどうかと思うが、「空っぽの容れもの」という自己像はある意味で当たっていたかもしれない。
 彼は何でも受け容れた。ただし自分の器のかたちに合わせて。そうして何でもできた。その末に、何でもできる自分に「退屈」した>
 
<伊丹十三自死の原因はわからない。あまりに多彩な才能に本人が疲れたのかもしれない。それでいてつぎに向かうべき表現ジャンルは見えない。だが、それをあらたに見つけるには加齢しすぎている。
 そんな、無常感とともにある「退屈」が、彼の背中をふいに押したのでは? 日本を嫌悪しながら深く愛し、その裂け目の深さに絶望したということなら、たしかに伊丹十三には三島由紀夫と通じるところがあった>
 
 本書の面白さのひとつは、ゴシップやトリビアの豊富さにもあります。1972年の「あさま山荘」事件で狙撃された機動隊員の項では、悲惨な話の合間に豆知識が挿入されています。
 
<厳寒の現場の警官隊は「カップヌードル」で体を温めた。七一年のカップヌードルの売り上げは二億円にすぎなかったが、カップヌードルを食する機動隊員らの姿がテレビに映されたため、七二年には六十七億円に跳ね上がり日本人の食生活に定着した>
 
「映画スター」を演じきった男、勝新太郎の最後の花道はどうであったか。
 
<中村玉緒は、あの世へ行っても夫が恥をかかないように、と棺の中に五百万円を入れた。夫が生涯をかけて演じた「映画スター」という豪放磊落な役をまっとうさせるために、五百万円を煙にしたのである>
 
 この他、著者らしい人選として、65万人以上の元日本兵のソ連抑留で「シベリア天皇」として絶大な権力をふるった浅原正基氏、在日コリアン二世の元小結、剣晃敏志氏、在日コリアンの「帰国運動」を煽動した寺尾五郎氏、下町演劇の鬼才、金杉忠男氏らも登場してきます。映画監督、俳優の記述に力がこもっているのも「好み」のなせる業でしょう。

「几帳面な乱暴者」として描かれている三船敏郎の項は、次のように締め括られます。
 
<いま、縮小した東宝砧撮影所の正面には、ゴジラの小ぶりな銅像がある。
 一九五四年春、焼津を基地とする遠洋漁船第五福竜丸がビキニ環礁での水爆実験で被曝した。その受難から発想された放射能障害の恐竜ゴジラは、東宝映画の救世主であった。ゴジラは世界に広く知られたが、それが戦後日本の「傷」の象徴であった事実は理解されない。
 そして撮影所正面左側の白壁には、『七人の侍』の巨大な壁画がある。百姓に白米の食い扶持だけで雇われた七人の侍が、峠から自分たちが守るべき村をはじめて見下ろすシーンで、その中心にいるのは三船敏郎である。
 風に吹かれた七人が見下ろしているのは、実は村ではなかった。貧しいが、希望と活気に満ちた一九五四年の日本であった。この壁画を見るたび、映画の中では老いることのない彼らの栄光を思い、ひるがえって、容赦なく人を老いさせる実人生の無常を思うのである>
 


 高度成長期を生きた、いま66歳の著者の偽らざる心境でしょう。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 


*1〓(とう)は登におおざと
*2「考える人」2015年夏号特集「ごはんが大事」の中の座談会「あんなもの、こんなもの食べて大きくなりました」(斎藤美奈子×関川夏央×山口文憲)より。
 

 
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