©UNO Associates Inc.


 夏時間の早い夜明け。起き抜けのエスプレッソ・コーヒーを手に、窓からのひと眺めで一日が始まる。階下の広場で、あちこちに黄色い光が点滅している。広場が黄色く光ると、いよいよ夏休みの始まりだ。
 広場は大きく、何本もの道路が取り囲み、あるいは突き抜けている。ミラノは、ドゥオーモ(大聖堂)を核に同心円を広げて成る町である。この広場を通る道路は、町の大動脈だ。間断なく車両と人が流れている。窓から見る道路の状況は、町の健康状態を診るモニターである。
 点滅しているのは、黄色の信号だ。交通量が減って、<広場を突っ切るのに信号待ちをしなくてもよろしい、各々気を付けて渡ってください>という合図である。ふだんは赤信号の出鼻に猛突進して突っ切っていく車もあるのに、こうして広場じゅうに黄色の信号が点滅し始めると、どの車もそろそろと用心深く広場を抜けていく。
 八月第一週目を終えると、会社も店もいっせいに夏の休暇に入る。
 バカンツァ(Vacanza)。
 空っぽになるための時間、と訳せばいいだろうか。あるいは、空(から)の時間を過ごすとき、としようか。町はすでに、がらんどうだ。

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 昨年は、ミラノで万博が開催されていた。五月の開幕時からしばらくは、当初の思惑が外れて訪問客が少なかった。市を筆頭に関係者たちが必死の集客策を練ったおかげで、夏頃からようやく賑わい始めたのだった。開催が決まって以来、数年がかりで町をあげて準備した行事は、ミラノの行く末を大きく変えた。万博の会場は市内から遠く離れた国際見本市会場そばだったが、町の中央でも建造物や道路の大幅な修復や改築がなされた。
 この広場も例外ではなく、足掛け三年の大工事が行われた。文字通り、丸ごと掘り返し、地下深くまで手を入れて造り直した。
 工事のあいだ広場は高さ三メートル近い木塀で囲まれ、迂回する車両と人の流れで周辺の道は脇道に至るまで溢れた。地区の住民のみぞ知る、というちょっとした空き地や抜け道のおかげで成り立っていた日常生活があるのを知った。

万博に向けて改修工事中だったときの広場(©UNO Associates Inc.)


 「完成した暁には、世界じゅうからの万博訪問客で潤う」
 運営当局は説明して、ミラノの住民は不便と埃と騒音に耐えた。もっとも我慢したのは、広場に面した店舗の主人たちである。窓からの景色は一変して、木塀となった。塀の中の毎日である。
 「完成後に多大な収益を得ることができる、というのは、広場に面した店を持つ皆さんの特権ですから」
 市からは、広場の改修工事費用の分担金を徴収された。昔の税収と同様に、店舗が広場に面する幅や平米で額面は決められた。
 毎日利用していたバールは、広場へとつながる大通りから広場の一角をぐるりとなぞる、角地を占めている。木塀が建ってからひと月経った頃だったか。夏の直前に店へ行くと、レジにもカウンター向こうにも、見知らぬ異国人が立っていた。居抜きで店舗が売られたのを知った。
 木塀で視界の悪くなった店周辺の警備強化に、工事のせいで汚れるので清掃回数を増やしたものの、客は減る一方だった。毎月の家賃に加えて、広場改修工事の分担金。
 働けど、働けど。
 ある朝、現金をバッグに詰めて、異国の人がやってきた。
 「提示された権利売買の金額は、ローンの返済残額と新たに積もった借金のぴったり総額でね……」
 万博開催まで待つのは到底無理、と首が回らなくなっていたところだった。
 長年広場の顔だったバールは、こうして異国人の経営する店へと変わった。
 気づくと、広場から延びる道沿いの店々のうちざっと四分の一ほどが、夏が終わると店主が変わっていた。万博で古いミラノは清算されたのである。

 広場が黄色く点滅して、元どおりの夏が帰ってきた。
 出かけていく人があれば、やってくる人もある。残る人もいる。
 留守宅にも、やることは山積みだ。飼い犬や猫、小鳥。老いたり、病んで出歩けない弱い人たち。ベランダや室内の植木。溜まる郵便物。学業を終えて引き上げる若者たち。
 世話を引き受ける人たちが、町を往来する。
 もぬけの空になる八月のミラノが好きで、毎年どこにいても戻ってきてここで過ごす。ビーチサンダルに短パン姿で大通りを新聞を読みながら歩く人がいる。スケートボードでジグザグと、二車線を自在に使って練習する子がいる。海辺や湖畔にはない、ミラノの夏の情景もまた一興だ。
 皆が出払ったあと、稼ぎどきになる人々もいる。無人の店舗や会社、家で、壁のペンキ塗り替えをする業者たちである。休暇が明けると、学校も会社も新しいシーズンを迎える。それで夏季には、塗装や補修工事を行うところが多い。年中行事のようなものだ。
 町のそちらこちらで、塗料だらけの作業服姿が目立つ。業務用トラックを堂々と路上に駐車して、作業員たちははしごやペンキ缶、ビニールシートや工具箱を担いで忙しそうに建物に入っていく。

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 ゴーストタウン化したなか、地区内の塗料店は夏じゅう開いている。そして、金物店も開いている。なぜか。
 見慣れた夏の風景に安心してはならない。塗装や補修の作業をするふりをして、留守宅に堂々と忍び込む盗賊団があるからだ。塗料店がペンキを売れば、金物店は錠前を売るのである。

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 毎年八月、私が住む建物は一階の住人と私だけが残ることになっている。暗黙の了解で、私たちで留守宅を見張る。責務は重大だが、住人どうしの結束と信頼は高まって、秋冬春と味わい深い人付き合いが待っている。