「修学旅行で行きました~」
 「グラバー園と眼鏡橋と平和公園、あと出島」
 「ちゃんぽんはおいしかったけど、中華街は小さくないですか?」

 「長崎」と聞いた人の反応は、だいたいこんなところだ。最近では修学旅行先も多様になったから、それすらあやしくて、「ハウステンボス……?」という答えもあったりする。たしかにおなじ県内ではあるが、「グラバー園」や「眼鏡橋」の「いわゆる『長崎』」と「ハウステンボス」は車で1時間分くらい離れている。地元の感覚では「おなじ」というわけにはいかないのだが、遠くから見ればどちらも「日本の西の果て」にひっくるめられるだろう。
 そんな「日本の西の果て」に、オランダの町並みを再現した場があるのは、バブル期の雨後の筍的テーマパーク建設とは一線を画し……ていない部分もあるが、そもそもは、長崎とオランダの歴史的な結びつきに端を発するものだ。

 

 ハイ、では参りましょう。
 1641年、現在の長崎県北部の平戸(ひらど)にあったオランダ商館が、長崎の「出島」に移されました。200年以上にわたる鎖国時代の西洋への唯一の窓口として、その間、両国の間には様々な人と物の交流があり……

 こうして長崎の歴史を語りだすと、あっという間に教科書的、あるいは観光ガイド的な物言いになってしまうのはなぜだろう。

 ハイ、次は眼鏡橋でございます。こちらは日本で最初の石造りのアーチ橋で、あの出島の建設が始まったのとおなじ、1634年の完成。秋の大祭「長崎くんち」が始まったのも、なんと、おなじ年なんですよ~……

眼鏡橋


 長崎は、語らない。なにも語っていない。

 と言えば、意外に思われるだろうか。
 たしかにペラペラと喋っているようには聞こえるが、それはあくまで、この土地の風変わりな歴史や生活を面白がる人間たちによる、決まり文句ばかりのシナリオだ。スイッチを押せば、ハイ、次はグラバー園でございます、「大浦天主堂」はこちらです、この道は龍馬が歩いたかもしれません……

 私は20年ほど、長崎のライターとして、雑誌や広告の仕事をしてきた。まさにペラペラと長崎のことを書いてきた人間だ。小さい町だが、「ネタ」はたくさんあるから困らない。おもだった観光地や祭りを散歩するという月刊誌の連載は4年も続き、『長崎迷宮旅暦』という本にもまとめた。しかしそれは私にとって、まさに「迷宮」、あるいは、まだ見ぬ長崎への新しい旅の始まりだった。
 地元テレビ局のディレクターだった時期もある。秋の大祭「長崎くんち」を追いかけた番組も作ったが、「こんなに好きなのに、近づけば近づくほど遠ざかる」ということに打ちのめされた。いま思えばそれは「どう近づいたって当事者にはなれない」という単純な理由だけでなく、「当事者にさえわからない『なにか』が奥深くに潜んでいる」ような予感というか、安易に触れられない「気配」を察知してしまったのかもしれない。

長崎くんち「コッコデショ(太鼓山)」


 目の前にあるのに、なにも見ていないのではないか。
 語られているのに、なにも聞いていないのではないか。

 世界はたぶん、ほとんどがそういうもので覆われているのだが、長崎のことについては、とりわけ厚いヴェールの向こう、または水の底に封じられているような気がしてならない。

長崎県庁前案内板「岬の教会」想像図


 長崎の港と町は、いまから450年ほど前に、ポルトガル船がやってきて開かれた。
 というのが歴史のテストでは正解だが、「鎌倉時代に『長崎氏』がやってきて始まった」という説もある。たとえそうだったにしても、長崎が、いまイメージされる長崎になったのは、開港以後であろう。「日本の西の果て」の深い入り江と、そこに横たわる「長い岬」には、それから、あまりにもたくさんのことが起こった。「地球の裏側から見たこともない船が来た」ということからして、いまの感覚ならば「UFOが降り立った」くらいの衝撃ではなかったろうか。
 そんな「開港」から50年ほどの、年表上のおもなラインナップはこんな感じだ。

 「各地から続々とキリシタンが逃れてくる」
 「町がごっそりイエズス会に寄進される」
 「天正遣欧少年使節が出発」
 「二十六聖人が殉教」
 「天領になる」
 「禁教令で教会が破壊される」
 「代官が処刑される」

 こうして眺めるだけなら「ふむふむ、なるほど、そんで鎖国になるわけね」で終わるかもしれない。しかし「日本各地から信仰の自由を求めた難民が流れ込み、町ごと教会のものになり、その総本山のローマに少年たちを送ったかと思えば、宣教師らの大量公開処刑が行われ、幕府の直轄地になり、愛する神を禁じられ、通っていた教会は倒され燃やされ、町の長も殺された」ということが、自分の生活の上に起こったと想像してみれば、その「密度」と「重さ」に言葉を失うのではないだろうか。「あんまりのこと」が続けば、人は思考停止するしかない。深く考えすぎたり、つながりに思いを馳せたりすれば、下手をすると生きるのがつらくなってしまう。
 ここは「考える人」という場ではあるが、長崎の人たちは「考えない人」になることで、ようやく生き延びてきた可能性がある。

 考えない、思うことを口にしないことが、生きるための基本的な条件となった町には、そのあとも、踏絵、殉教、鎖国、出島、唐人屋敷、時代が明ければ信徒発見、もっと下って戦争、原爆…と歴史的なできごとが起こり続けた。
 そのかたわらでは、ハタ揚げやペーロン、精霊流しに長崎くんち、新しいところではランタンフェスティバルなど、どこの国ともわからない祭りで年中賑わっている。よくある「異国情緒」では物足りないのか、長崎の観光パンフレットやガイドブックでは、「和=日本」「華=中国」「蘭=オランダ」を合わせた「和華蘭(わからん)」という言葉をよく見かける。目に見えるものを並べに並べた上で、結局は「わからない」ということが「長崎らしさ」なのだというのなら、いささか哀しき「自画像」である。

長崎の町と港


 やっぱり、長崎はなにも語っていない。

 長崎のことを食い散らしているうちに、ようやく、あれ?と気が付いた。水面をグルグル回っていただけだった。この町には、途方もない「水面下」が広がっていて、その奥底には、これまでの痛みや苦しみや悲しみによって結晶してきたものが、静かに光を放ちながら眠っているのではないか。
 よし、潜ってみよう。
 そう思ってこれまでの人生を振り返れば、原爆で傾いた古い町家に暮らし、「長い岬」にできた最初の町の小学校に通い、くんちを間近に見て育ち……と、ひととおりの「時空の土地勘」は持ち合わせていると思われる。

 おしゃべりな町の水底へ、そっと潜って「ふかよみ」すれば、どんな物語が待っているだろうか。(つづく)(写真・イラスト ©Midori Shimotsuma)