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 松井が伝説の打者になった日
 
 先週末で、朝の楽しみがひとつなくなりました。5月24日から続いていた朝日新聞「あの夏 明徳義塾×星陵」の連載が終わったからです。スポーツ面の片隅、1回が15字×34行(510文字)という短い記事でしたが、久々に力を入れて読みました。

 いまから24年前の1992年8月16日。夏の全国高校野球選手権大会の第2回戦第3試合。世に激しい物議をかもした「松井の5打席連続敬遠」の試合です。

 夏の甲子園のかつての名勝負を回顧するシリーズの(*)、これは14試合目にあたります。初回が1979年「箕島×星陵」の死闘でしたから、石川県代表・星稜高校は2度目の登場です。

  山際淳司さんの「八月のカクテル光線」(『スローカーブを、もう一球』角川文庫、所収)でも有名な「箕島×星陵」戦は、「二度の奇跡」を引き起こした和歌山県代表・箕島高校が、延長18回、4-3の劇的サヨナラ勝ちを収めたゲームです。その13年後、星陵は再び2-3の1点差で高知県代表・明徳義塾高校に敗れます。しかもこの試合で、「ゴジラ松井」と呼ばれた4番打者・松井秀喜は、1度もバットを振ることがありませんでした。彼に投じられた20球すべてが、外角へ大きく外れるボール――全打席が敬遠のフォアボールだったのです。こうして星稜は、またしても「星陵らしく散る」ことで、全国にその名を轟かせることになりました。

 連載初回の末尾には、但し書きが付いています。「このシリーズは星陵で松井のチームメートだった福角元伸が担当します」――。松井の後を打っていた6番・一塁手、福角記者のことは、何かの折に聞いていました。そして、いずれは書いてもらいたい、と思っていたのが、この試合のことでした。両校の監督や選手、関係者らを取材して、あの試合をもう一度振り返ってほしい、と願っていたのです。
 


 世の中には答えの出ない難問があります。「松井の5連続敬遠」も、そのひとつです。自分がもし高校野球の監督であったなら、対戦相手に松井秀喜のような10年に1人の強打者がいた場合、どうするか。何としても勝ちたければ、「歩かせよう」と考えるだろう。ただ、あそこまで徹底するか。あの日のゲーム展開の中で、他に方法はなかったのか。

 また仮に、自分がそれを命じられたピッチャーだとすれば、作戦に素直に従えるか。従ったとして、あの異様な雰囲気の中で、それを貫徹できるだろうか。そこに迷いは生まれないか、後悔はしないか……。

 星陵の監督であったならば、どうだろうか。松井の立場だったら、どう感じるだろう……考える度に、答えが揺らぎ、確信が持てませんでした。

 そもそも一度として、苦しい練習を積み重ね、甲子園での全国制覇を夢見たこともない者が、勝手な推論をもてあそぶような話ではありません。それでも、興味は尽きません。高校野球の試合で「5連続敬遠」という選択は正しかったのか。真っ向勝負を挑むべきだったのか。高校野球を通じての人間教育とは何なのか……。

 試合直後の反応は、明徳義塾に批判的な論調が中心でした。翌日の朝日新聞がそうです。「星陵、『逃げ』に屈す」と報じ、「無念」「松井、一振りもできず」「抜け目ない明徳義塾」と見出しに謳っています。「アルプス席」というコラムでは、「大事なもの忘れた明徳ベンチ」と厳しい批判が突きつけられました。
 
<……どんな手段を取ってでも「勝つんだ」という態度はどう考えても理解しがたい。特に、走者のいない二死無走者(七回)までもボール連発を命じた時は、おとなのエゴを見たような気がして、不愉快ささえ覚えた。
 試合は1点差で逃げ切り、明徳の校歌が流れたが、その最中にスタンドから「帰れ、帰れ!」コールが起こったのも、明徳の異常な執着を非難したのだろう。1回戦の長岡向陵・小柳監督が「三年間、努力してきたのは甲子園で敬遠するためじゃない」と、竹内投手にハッパをかけて松井と対決させたのとは大違いだった。
「敬遠するのはルールには抵触しない。これも作戦のひとつ」という声もある。しかし、力を尽くしてのぶつかり合いでないところに、釈然としないものが残る。当の河野投手でさえ「一度は勝負したかった」と、もらしている。明徳ベンチは「勝利」にこだわるあまり、もう一つの大事なものを忘れていた、といいたい>(朝日新聞、1992年8月17日夕刊)
 


 いまYouTubeでこの場面を見ると、NHKの放送ではアナウンサーが敬遠策に不満をにじませ、朝日放送では解説者が「勝負してほしいですねぇ」を繰り返し、「高知の野球とはちょっと違いますねぇ」「こんなのは初めてです」「私、残念ですよ」と訴えています。

 試合後に、急きょ記者会見した牧野直隆・日本高等学校野球連盟会長が、「走者がいるとき、作戦として敬遠することはあるが、無走者のときには正面から勝負してほしかった。一年間この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだからその力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」と異例の談話を発表します。まさに社会事件として大きな波紋を広げたのです。

 私は生中継を見ていたわけではありません。夜のスポーツ・ニュースで結果を知り、最終回に前代未聞の騒ぎが起こったことを知らされます。2-3で迎えた9回表、星稜は2死から3番打者が渾身の三塁打を放ちます。2死三塁。迎えるバッターは4番の松井。だが、明徳はそこでも勝負を避けました。5打席目も、迷うことなく敬遠でした。星陵応援団で埋まっていたレフトスタンドが、ついにここで決壊します。メガホンやいろいろな物がグラウンドに投げ込まれ、試合は完全に中断します。

 この試合をじっくり描いたノンフィクション作品に、『甲子園が割れた日――松井秀喜5連続敬遠の真実』(中村計、新潮文庫)という力作があります。それによると、一塁手の前にも500ミリリットルの缶ビールが飛んできます。レフトを守っていた明徳の選手は証言しています。
 
「第5打席、1球ボールになった時点で、『うぉーっ』てなってたんです。『そこの(背番号)11番、殺すぞぉー!』とか。やばいと思いましたよ。それからはもう、ザワザワ、ザワザワ、すごいんです。なんかあるなと思ってチラチラ見てたら、ぽーん、ぽーんって何人かがメガフォンを投げ込んできた。そうしたら一気にぶわーってきたんです。ジュースの紙パックとか、オロナミンCの空き瓶とかもあったかな。怖くてラインの方には、よういかんかったですよ」(同書)
 
 試合後の両監督のインタビューも、論議を呼びました。

 明徳義塾・馬淵史郎監督――「潔く勝負の手もありますけどね、われわれも高知県代表として負けるわけにいきませんしね。勝利至上主義とかそんなんじゃないですけども、あのゲームの展開の中でね、戦法として僕は間違ってなかったんじゃないかと考えてますけど」

 星陵・山下智茂監督――「勝負してほしかったです、松井君とね。それだけです。自分の野球の中でやっぱり悔いの残る一戦ですね」

 星陵の主将でもあった松井選手は、「(5連続敬遠は)相手の作戦なんで自分は何も言えませんけど」と、悔しさを押し殺した冷静なコメントを残しました。今回の連載では、松井選手のプロ時代の恩師、長嶋茂雄さんの談話が紹介されています。「松井君は特別のものを持っていました。甲子園で5打席連続敬遠されましたが、一塁へ走る姿が、5回とも同じ走りなんです。いろいろ思うところはあっただろうけど、大人を感じました」と。

 プロ野球・巨人、米大リーグ・ヤンキースで活躍し、現役を引退した41歳(取材時)の松井さんは、「5連続敬遠? もう、取材をされ尽くしたよ」と苦笑いしながら、24年前を振り返ります。「あの夏の試合が、こうやって何年経っても扱われるのは、俺がたまたま、巨人や大リーグに行けたから。プロ野球で一度も1軍で出場できずに現役を終えていたら、微妙な試合になっていたと思うよ」。
 
<ユニホームを着ている間、「自分は5打席連続で敬遠された選手。それを証明しなければ」という思いが、頭の片隅にあったという。それが、プロ20年で日米通算507本塁打を積み上げた、努力の原動力の一つにもなった>
 


 明徳の河野和洋投手のことも気になっていました。9年前の『甲子園が割れた日』では、「あんとき、僕が何がいちばん腹が立ったかというと、みんな言わせたがるんですよ! 『勝負したかったです』って!」と述べていたのが彼でした。翌日の新聞に載った記事にこうあります。
 
<「本当は勝負したかったんじゃない?」。「ちょっとは……」と河野。目線がその時、宙をさまよった>(朝日新聞、1992年8月17日夕刊)
 
 これについて、「あんなのイカサマですよ。僕もまだ子どもでしたからね、そりゃあ、しつこく聞かれてちょっとうなずいてしまったということはあったかもしれませんけどね。……要はあれでしょう、みんな馬淵さんを悪者にしたいんですよ」「メディアの人はどういう風にコメントすれば、いっちばん、喜ぶんですかね。僕、今度きたらその通り、言ってやりますよ。僕は本当は勝負をしたかったです! 抑える自信がありました! そう言えばいいんですかね」(同書)と。

 本来は背番号が8で、打撃センスのいい野手でした。「本職のピッチャーじゃないから、勝負がしたいとか、そういうこだわりはなかった」と今回の取材でも語っています。球威はさほどではありませんが、制球力が抜群で、何よりあの異様な雰囲気に少しも動じない度胸がありました。「普通はビビる。河野やから、あの作戦がとれた」と馬淵監督も認める通りです。
 
「監督が『カラスは白』と言えば白。5万5千人の大観衆より、僕は監督の方が怖かった」
 
 そして最終回のあの騒ぎ。スタンドから物が投げ入れられ、星陵の選手と球場関係者が、投入物の始末に走った中断の時間が、星陵の押せ押せムードになりかけた試合の流れを引き戻します。マウンドの河野投手に、立ち直りのきっかけを与えます。
 
「『5回も敬遠して負けるわけにはいかない』と、心拍数も上がっていた。冷静に自分をコントロールできたかどうか。ひと呼吸置けた。月岩(次打者。引用者註)に集中でいいんだなと」
 
 こうして明徳が勝利を手にします。しかしながら6日後の3回戦では、広島工業を相手に0-8で大敗します。広島工業は、次の尽誠学園に0-5で完敗します。尽誠学園は拓大紅陵に敗れ、拓大紅陵は決勝で西日本短大附属に屈します。

 当時、応援団の間では、負けたチームが勝ったチームに千羽鶴を託していく習慣があったといいます(いまでもそうかもしれません)。つまり、星陵の千羽鶴を託されたチームは、すべて敗退しています。どうも「松井の呪い」らしい――誰ともなく、そう言い始めます。

 24年を経て、星陵・山下監督は語っています。「力がないから負けた。恨みなんかは全然ない。ただ、僕はスポーツマンシップで戦い、社会人野球の監督経験があった馬淵さんはゲームズマンシップで戦った。そういう試合やったね」と。

 福角記者は馬淵監督に、「もう一度、あの夏のように5敬遠をやれますか」と尋ねています。
 
「40、50歳のときは『まだやるで!』って言うてた。60歳の馬淵史郎がやるか言うと、他の方法があるかもな。あの頃より、経験は積んでいるわけやから。まあ、まず松井クラスのバッターがおらんよ」
 
 徹底した作戦の是非はともかく、あの運命的な夏の思い出を心のどこかにしまって、監督、選手たち、それぞれがその後の人生を歩んでいます。間もなく開幕となる甲子園に、今年はどんな名勝負が誕生するのでしょう。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 



 
*第100回大会となる2018年まで、この連載は続くそうです。
■来週11日(祝)は休みます。次回の配信は8月18日の予定です。
 

 
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