親鸞の魅力と裏腹の危険性

 本誌で「親鸞と日本主義」を連載中の北海道大学准教授・中島岳志さんと、浄土真宗の僧侶にして、相愛大学教授、『親鸞の思想構造』『不干斎ハビアン』などといった著書のある釈徹宗さんが、親鸞思想の魅力と裏腹の危険性について語ったのが、対談「未完の親鸞」です。
「魅力」はまだしも、「親鸞思想の危険性」と言われてもピンと来ない人が多いかもしれません。しかしこのことこそが、対談のポイントになっていきます。

 上記連載における中島さんのまなざしも、「親鸞思想の危険性」に向けられています。中島さんは連載で、大正期・昭和初期に活躍した倉田百三や蓑田胸喜ら日本主義者が、親鸞思想に傾倒していたことに注目。「絶対他力」に代表される親鸞思想が、いかにして「日本原理主義」に接続していくのかを詳細に検討し、以下のような大きな問いを投げ掛けています。
「(親鸞の)思想的危険性を顕在化させたのが、大正から昭和前期の親鸞主義者なのだとすれば、彼らの議論に遡行することで浄土真宗の信仰の論理そのものを見つめ直す必要があるのではないか」
 つまり、「親鸞の思想そのものが、危険な要素を内包しているのではないか」と――。
 そうした中島さんの議論を、親鸞思想と長く格闘してきた釈さんがしかと受け止めます。曰く、「『絶対他力』というのは、『自分』というものを一度括弧に入れる、つまり主体性を捨て去るわけですから、場合によっては一つの方向にドッとなだれこむことだって起こります」。さらに、比較宗教学者でもある釈さんは「どのような宗教集団にも、ファシズムの要素は常にあって、一歩間違えればその方向に引っ張られてしまいます」と相対化、宗祖個人の思想とその後出来た教団を支えた論理の相違については一筋縄ではいかない、と見解を述べます。

 さらに話は仏教そのものにまで及びます。釈さんの発言です。
「親鸞の思想だけでなく、仏教それ自体も危ないというか、取扱注意だと思います。『仏教で癒される』なんてのもちょっと眉唾かもしれません。(略)仏教の目指す地平は、喜びにも悲しみにも支配されるなという、とても反ヒューマニズム的な立ち位置です。(略)宗教の美味しいところだけをつまみ食いすると危ない。オウム真理教の場合も、そのような傾向がありました」
 ならば、どのような心構えと態度で、仏教や親鸞の思想に触れればよいのだろうか。二人の意見は、「わかったような気になる」のが一番危険、「わかりにくさ」を甘受しなければいけないということで一致します。
「親鸞の魅力」を知るためには、その裏腹の「危険性」を知ることで、その理解もより深まるでしょう。世に氾濫する、口当たりの良いだけの仏教の言葉に飽き飽きしている方ならば、適度な刺激を受けること間違いなしの対談です。