©UNO Associates Inc.


 昨日まで学生だったのに、ふと気付くと還暦目前ではないか。日本で過ごした時間より、イタリアにいる期間のほうが長くなってしまった。
 ときどき自分の帰る先がわからなくなると、今いるところが自分の居所なのだと考えることにしている。それでも言い知れない里心がつくこともしばしばだ。 懐かしくて寂しいときに思い浮かべる味がある。それが、そのときどきの故郷なのかもしれない。
 「僕ならピッツァだな」
 「エスプレッソ・コーヒーにきまってる」
 「トマトだけで和えたシンプルなスパゲッティ!」
 ミラノの近所のバールの顔馴染たちが、食材を思いつくままに並べて喧しい。皆、海外の休暇から帰ってきたばかり。地区内の店の大半がまだ休暇中なので、生鮮食品が思うように手に入らない。スーパーマーケットのトマトは、プラスチックを噛むようで味気ない。真空パックのモッツァレッラチーズは、強張ったゴムの食感だ。市場が開く九月まで待てない。恋しい味に再会するために、農家の友人を訪ねることになった。

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 ミラノは大都市のようで、市街地はそのまま農作地帯へと繋がっている。
 「早く、窓を!」
 郊外の新鮮な空気を味わおう、とそれまで車窓を全開し車を走らせていたが、大急ぎで閉める。肥料の匂いのせいではない。蚊だ。フロントグラスは、当たって潰れた蚊で黒い点々模様になっている。ただごとの大きさではない。子供の手の平ほどはあるだろう。
 一帯は、イタリア有数の水田地帯である。
 田園風景ののどかさと引き換えに、蚊の大量発生に悩まされてきた。化学薬品による駆除は極力避けよう、とこれまでさまざまな対策が取られてきた。イタリアは国をあげて、農薬を少なくしていこう、と取り組んでいる。化学薬品を使えば使うほど果樹野菜が元来持つ生命力は脆弱となり、土は枯れ、反比例して害虫はよりしぶとくなるからだ。水を抜き取った田の周囲に水堀を作り、産卵に集まってきた蚊を一網打尽にするエコロジーな方法など、そこそこの成果を上げて注目されたものもある。ところがこの近年、<タイガー蚊>と呼ばれる種が大量に発生。デング熱やジカ熱といった感染症を媒介する、<ヒトスジシマカ>の俗称だ。
 「パリのルイ・パストゥール医学研究センターとパヴィア大学の生物工学科が協力して、この蚊とウイルスについての共同研究を始めたんだよ」
 黒い点々をワイパーで払いのけながら、友人が説明する。二〇一六年の夏前に新たに投下された研究資金は、約一億八六〇〇万円にも上るという。

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 「<Made in Italy>の未来はファッションやデザイン分野ではなく、食にある」
 イタリア政府が国の将来の方向として産業政策をそう打ち出してから、十数年になる。
 <大地を守ることは、そこに生育する農作物や生物を守ること。人間を守ること。健全な種を残す。未来は、種と土壌をどう守れるかにかかっている>
 大まかに書くと、そういう骨子の政策である。
 イタリア半島は小さく、天然資源も多くはない。数量で他国に立ち向かうのは、ナンセンス。物の品質を問うとき、それを生み出す品格が肝心だ。
 欧州連合になって以降各国ごとの意向は伝わり難いが、遺伝子組み換え農作物や農薬多用化について、イタリアはどの欧州他国よりも先んじて、
 「絶対に認めない」
と、宣言してきた。有機農業組合の事情通にその理由を尋ねたら、
 「遺伝子組み換えで大量生産して飢餓や貧困を救おうだなんて、欲を偽善で覆った傲慢な話だ。人類と地球に無害かどうか、たかだか数十年の実験結果でわかる? 発明したのは、人間でしょう? 人間は間違える生き物です」
 きっぱり言った。

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 さて、農家の中庭に車を停めると、甘酸っぱい匂いに取り囲まれた。作業テーブルの上には、水洗いした採れたてのトマトが山と積まれている。流れ作業で次々と皮やヘタを除き、ぐいっと握り余分な水気を絞り捨て、実を挽いて潰し、色付きのガラス瓶に詰めていく。村祭りの厨房で使う大きなアルミ製の鍋にダンボール箱を切って瓶の下と間に詰め、水を張り、数時間グラグラと煮る。
 半日掛かりでトマトの瓶詰めを終えると、昼だ。集まった近隣の人たちが、発酵して膨らんだ小麦粉の生地を力づくで練っている。
 中庭の一角には、巻き上げた麦藁や剪定して払った果樹の枝、森林で伐採した下木がうずたかく積み上げられている。すぐ脇の壁の鉄製の小さな扉を開くと、深い奥には轟々と炎が見える。
 友人は、積み上げられた枯れ枝や藁を掴み、炎に向かって投げ入れている。照り返しでこちらの顔まで火照ってくると、彼は長い柄の金ベラを使って、練って伸ばして具を乗せた生地を釜の中へ押し込んでいる。
 入れて、二分。
 生地の上で、トマトは煮えたってそのままソースに変わっている。トロリと縁へ流れるのは、今朝出来立てのチーズだ。足元に生えるバジリコの葉をちぎり置く。焼き立てのピッツァの上で、強烈な草の香を放ちながら葉が揺れている。真っ赤なトマトと純白のチーズとともに踊っているように見えた。

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