ヨルダン北部、ザータリ難民キャンプ。太陽の光が和らいだ頃、人々がボールを手に外に集い始める。


 飛び交う言葉に耳を傾けながら、ときどき、小さな頃に遊んでいた校庭の様子を思い浮かべる。たとえそれがどんなに立派なボールでも、そしてそれを投げようとしているのが仲良しの友達であったとしても、勢いよく投げつけられたら身構えてしまう。反対に、たとえそれがどんなに使い古されたボールでも、ちょっと距離のある人からのボールだとしても、ふわっと優しく手渡すように投げられたら、自然とこの手が伸びていくように思う。届けようと、努めること。それは写真家やジャーナリストだけではなく、あらゆる表現の目指すべき姿なのかもしれない。
 ふと自分の仕事を振り返り、「どんな言葉を紡ぎたいか」と考える。日々言葉に溢れる画面の中を覗きこめば、否応なしに、棘で刺し合うようなやりとりが目に飛び込んでくる。だからこそ、「どんな言葉を紡ぎたいか」という問いの先まで想いを馳せる。
 もし誰かが寝る前にふとその言葉を思い出し、「明日も生きてみよう」と思えたなら。そういう風に響いてくれたなら。私が紡ぎたい言葉は、きっとその中にある。

ヨルダンの都市部に暮らすシリア人一家。ふわりと飛び交う風船がしぼむまで、子どもたちの束の間の宝物となる。