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石内都と、写真の旅へ

 九月二十五日金曜日の朝七時半。いつもならゲティ美術館のアマンダが石内を迎えにくる時間だが、今朝タクシーでレジデンスにやってきたのは、ロサンゼルス在住のドイツ人写真家イナ・ユングマンだ。三十歳、金髪のショートカットがよく似合う。日本語がとても上手な彼女がニューメキシコでのドライバー役を引き受けてくれたのだ。

 石内とイナの出会いは一九九六年、ドイツのフランクフルトで開催された「プロスペクト96」展に参加したことにさかのぼる。世界各国から八十五人が参加した写真展で、石内は舞踊家・大野一雄を撮ったシリーズ「1906 to the skin」を出品して好評を博した。このオープニングパーティーで、石内はイナの両親に再会したのだ。父はドイツ文学研究者、日本語が堪能な母は韓国美術研究者として知られる人だが、かつて父は名古屋大学で教鞭をとっていて、一家が日本で暮らしていた時期に石内と出会っていた。写真愛好家の父は石内作品のコレクターでもあり、以来親交を重ねていたという。

石内都とイナ・ユングマン。写真提供=The Third Gallery Aya

 石内と再会したユングマン夫妻は、当時暮らしていたフランクフルト郊外の町ヴェツラー(『若きウェルテルの悩み』の舞台となった城のある町)の自宅に石内を招き、楽しい数日を過ごした。その後、ユングマン一家はアメリカ・サンタモニカに移住、母はUCLAで教鞭をとっている。成長したイナはUCLAに入学、在学中の夏に石内の家に数週間滞在したこともあり、ドイツでも学んだ。シリアなど世界各地を旅して作品を発表、現在は結婚して創作活動をしている。二〇一四年に石内がゲティ美術館の下見をした際にもいろいろと協力してもらったそうだ。

 石内は常々「写真があるから知らない土地を旅できるし、知らない人たちと出会えて、その関係が広がる」と語っていて、旅先で出会った人たちとの関係が長きにわたっているのも驚くばかりだ。今回のニューメキシコへの旅の計画を石内がイナに伝え、興味を持った彼女と、The Third Gallery Ayaの綾智佳、そして私の女四人の旅が始まることになった。石内は美術館の展示作業からしばし解放されることもあってか、晴々とした表情だ。

 九時五十五分ロサンゼルス発のフライトでアルバカーキ国際空港に到着したのは十二時四十分(時差一時間)。空港近くでレンタカーを借り、走り出してすぐに強烈な光に圧倒される。初めて体験する光のまばゆさに目も開けられない。視界のほとんどを占める青く高い空。乾燥した空気。空港から延びるハイウェイの両脇には大きなビルが建つけれど、それらは砂漠の上に造られたものでしかなく、この土地の長い歴史から眺めればかりそめの風景にすぎないのだろう。

 ニューメキシコ州の南側はメキシコと国境を接しているが、メキシコでもアメリカでもない異質の文化要素に満ちている。

 現在のニューメキシコ州は、そもそもは移動生活を送ってきた平原インディアンが暮らし、山岳インディアンとは交易を通じた交流の地だった。だが十六世紀後半、支配地拡大を図るスペイン王国が送り出した探検隊により「エル・ヌエボ・メヒコ」(新しく発見されたもう一つのメキシコ)と名付けられた地が、これ以降スペインの植民地となった。さらに一八二一年のメキシコ独立によってメキシコ領となる。一八四六年に米墨戦争が起こり、メキシコが敗北した結果、ニューメキシコはアメリカ合衆国の領土となった。

 ニューメキシコに色濃いヒスパニック文化は、スペイン領時代にメキシコのメスティーソ(スペインとインディオの混血)文化が持ち込まれ、さらにネイティヴ・アメリカンの文化、十九世紀以降の欧州系文化などとも融合し、変容していったといわれる。アメリカの中でも独自の歴史を歩み、その文化が多くの人を惹きつけてきた地だ。一九一七年、コロラドへの旅の途上にこの地を初めて訪れたジョージア・オキーフもその一人だった。

 風景はしだいに荒々しくなってくる。黄色の土の山々が広がり、その中に水が少ない土地でも育つ灌木類が見える。「こんな土の色、見たことないわ。すごい風景よねえ。アメリカって州ごとにまるで風景が違うのよねえ」と石内が声をあげる。

ニューメキシコの風景。写真提供=The Third Gallery Aya

 途中立ち寄ったレストランは、メキシコの田舎町にある食堂といった風情で、ぶんぶん飛び交うハエを手で払いながらタコスをほおばった。一時間ほどでサンタフェ市街に近いホテルに到着した。

 夕食前にサンタフェのダウンタウンを歩く。骨董品店、土産物屋、銀細工の店、ギャラリーなどが立ち並んでいるが、どの店舗も伝統とモダニズムが融合したサンタフェスタイルと呼ばれる建築様式で店をながめているだけで楽しい。アメリカ各地からやってくる観光客でにぎわい、路上に話し声がさざめく。こんなふうにそぞろ歩くということ自体が久しぶりの私たちは、うきうきしてくる。レストランはどこも満席だったが、ようやく一軒の店に入ることができた。

 お勧めだというチキンのグリル、それからメキシカンスープやサラダを注文して、まずはビールで乾杯、といきたいのに、大柄のヒスパニックの女性店長はIDカードか、パスポートを提示しなければ飲ませないと言う。運悪く、石内だけがパスポートをホテルに置いてきてしまったのだが、銀髪の彼女はどう見たって大人なのだから大丈夫でしょと私たちが言っても、絶対ダメだの一点張り。仕方なくビールを三つ頼んで、石内はこっそり飲むという作戦で臨んだのだが、店長はそれを目ざとく見つけ、「また彼女が飲むのを見つけたら全員のビールを取り上げる」と怖い目をするのだ。アメリカという国は、妙に杓子定規な面があるのはしばしば感じることだが、この店長はかなりの頑固者だ。私たちは未成年の少女のように店長の厳しい監視をくぐりぬけて石内にテーブルの下でビールグラスを渡し、彼女はそれを飲んだ。何だか四人そろって悪戯をしているような気分になってげらげら笑い合う。そうして今、旅をしている、という幸福感に浸った。

 店を出た九時、空気はすっかり冷え込んでいて吐く息が白い。この季節でも深夜には十度まで気温が下がるという。空を見上げると星がいくつも瞬き、ここが高原砂漠地帯だということをあらためて感じる。「明日はいよいよオキーフの家に行くのね」、石内の言葉に私の胸は高鳴るのだった。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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