実際にはそんなではないことを支持する研究結果は、世の中に数多く報告されている。しかしながら、私は幼いころから、有名な俗説「鶏は三歩歩くと忘れる」の呪縛により、鳥という生き物がとても知能の低いバカな生物であるというイメージを持っていて、それを今に至るまで引きずり続けている。公園で観光客がばらまくパンくずやら菓子やらに群がり、ひたすら機械のようにそれをついばみ続けるハトやスズメの群れを見て、彼らに知性の片鱗を僅かでも見出すことのできる御仁がいたならば、ぜひ顔を拝んでみたいと思っている。まあ、人の作った環境下で自然本来の振る舞いを歪められている上記の例は極端かもしれないが、野鳥は全般的に型にはまった動きしかしていないものが多いような気がしている。そして、見かける時はいつも死に物狂いで餌を探してついばんでいる姿である。小型種であればあるほど、その印象が強い。見ていて、何だか生きるのに必死すぎて、余裕がないように見えるのだ。そんな中、唯一私にとって別格の鳥がカラスである。

ハシブトガラス。夏の羽毛の抜け替わり時期のため、みすぼらしい見た目をしている。羽毛のない鳥の姿は、恐竜と大差ない。

 カラスはとても賢く、その時の状況によって柔軟に行動を変えることができる。目的を果たすための選択肢をいくつも持っているから、他の鳥に比べて生きるためとか、自分の子孫を残すためとか、生物として最低限やり遂げなければいけないこと以外のことをする余裕がある。無駄なことをできるようになったわけである。時々、テレビのワイドショーなどの「おもしろ動物映像」みたいなコーナーで、カラスが公園の滑り台に登って滑る映像が流れることがある。餌を探すわけでもなしに、木の枝にさかさまにぶら下がったり、強風の吹き荒れる危険な天候の日に、ビルの屋上など高いところから舞い上がり、数秒間風に逆らいつつ浮遊するさまを見ることもある。カラスが自分の遺伝子を後代に伝え残す上で、滑り台から滑り降りたり、荒天のなか、宙に浮かばねばならぬ必然性など、本来ならまったくないはずである。要は、ただ楽しいから行っているだけの無意味な行為で、人間の世界でいう「遊び」である。遊んで暮らせるほどの余裕が、カラスにはあるのだ。こういう人間くさい振る舞いを恥じらいもせず見せつけるカラスは、幼少期の私にとって格好の観察対象だった。身近に見られる鳥の中では破格に大きく立派な姿をしていることも、好印象の一つだ。現代の都市に生きる、二足歩行恐竜そのものと言ってもいい。

 

ハシボソガラスが固いクルミをくわえて飛び立つ。高所に舞い上がり、これを落として割る。


 小学生の頃住んでいた、埼玉の団地そばの緑地公園には、多くのハシブトガラスが生息していた。その中でなぜか一羽だけ、妙に人を恐れない個体がいたのである。私がその個体の存在に気付いたのは、ある年の夏だった。弱っているわけではないのだが、いつも地面や木の枝の低いところに止まっており、あまり活発に動き回らなかった。公園内にいる他のカラス達は、だいたい半径10m圏内に人が近づくと飛び立って逃げてしまう。しかし、件の個体は半径2mくらいまでなら近づくことを許容してくれた。しばらく観察していると、奴は地面に落ちたセミの死骸を拾って食べているようだった。セミが好物なのだろうか。そこで、私は周囲の林から新鮮なアブラゼミの死骸をいくつか拾ってきて、カラスの前に持って行って見せてやった。すると、カラスは物欲しそうにこちらの手中のセミを見つつ、近くまで寄ってきた。しかし、さすがに初対面の人間に手前まで寄るのは怖いらしく、1mくらいまで近づいてきた後は立ち止まってしまった。そこで、セミをカラスの足元へ投げてやると、カラスは速やかにそれを拾い上げ、食べてしまった。私はこの時、カラスが餌を食べる様を生まれて初めて至近で観察した。手が使えないカラスは、その代わりに巧みに足の指でセミを押さえつけて固定し、裁ちばさみのような強靭な嘴でセミの外骨格を粉砕しては飲み込んでいった。カラスは大きな鳥なので、セミ程度のものなら一思いに丸呑みするかと思ったが、律儀にもちびちび細かくしないと食べられないらしい。その一連のシステマティックな動きが面白くて、私は持っていたセミを全部カラスにやってしまった。すると、カラスは妙な振る舞いを見せた。与えたセミを、今度は次々に丸呑みにしていくのだ。しかし、よく見ると本当に丸呑みにしていたわけではなかった。喉の下を見ると、大きく膨らんでいる。カラスは一度に食いきれない量の餌を見つけた場合、しかし見捨てるのはもったいないので、とりあえず口の中に放り込めるだけ放り込んで溜め込むのだ。シマリスやハムスターにヒマワリのタネをしこたまくれてやると、頬の袋にパンパンに溜め込むが、同じことをカラスもやるとは知らなかった。その直後、カラスは踵を返して突然飛び立った。低空を飛んでいくそいつを後から追いかけると、50mくらい離れた林の地面に降り立った。そして、至近の大木の根の隙間に嘴を突っ込み、さっき丸呑みにしたセミをごろごろ吐き出すではないか。その上から、周囲の落ち葉や枯れ枝などを嘴でつまんでは被せて隠し、カモフラージュしていた。完全に隠すと、奴は何食わぬ顔で首をかしげ、こっちを振り返って見つめるばかりだった。カモフラージュは精巧で、やる現場を見ていなければ、まずどこに隠したのか見抜けない。でも、隠した本人はちゃんとそこを記憶しており、後日小腹が空いたときにでも掘り返して食うのだろう。カラスは、おそらく同時に複数個所の餌の隠し場所を持っていて、それらをきちんと覚えているのだ(いくつかは忘れるだろうけど)。見習いたいほどの記憶力の良さ。

 

樹幹につくカメムシを狙うハシブトガラス。視力はすばらしくよく、小さな獲物も的確に発見する。


 翌日以降も、私はそのカラスに会いに公園へと足を運んだ。奴は毎日公園内のどこかにはいるようなのだが、日によって出没場所がかなり変化するため、探し出すのは容易ではなかった。加えて、カラスはこの園内にたくさん生息している上、どの個体も同じような背格好だ。しかしそれでも、あの独特のぼさっとした雰囲気、近寄っても逃げないあの佇まいにより、ひとたび見つけさえすれば私はそれが間違いなくあの個体であることを見抜けたのだった。私は奴と邂逅を遂げるたび、友好の証にセミを持ってきて与えた(本当は、野生生物に人が餌を与える行為は褒められたことではない)。そのやり取りを繰り返すうち、向こうもこちらに対してある程度信用が芽生えてきたらしく、こちらの手から直接セミを受け取るようになった。さらに、逢引が始まって3週間目くらいになると、奴はこちらの顔を完全に覚えたらしい。私が園内へ行くと、こちらが探すまでもなく向こうからこちらを探して飛んでくるようにまでなった。ある時など、ひとり園内の雑木林でアリの巣を掘っていて、何の気なしにふと後ろを振り返ったら突然背中合わせで奴がいたので、大層腰を抜かしたものだった。

 このカラスは、私が近くにいる間はよく歌を歌って聞かせてくれた。すなわち、左右に体を揺らしつつお辞儀をするように頭を下げ、「ヲン、カラララララ……」というしわがれ声を繰り返し発して見せた。園内にいる他のどんなカラスの中にも、こんな動きをしつつこんな声を出すものはおらず、あの個体のあの行動にいったいどんな意味が込められていたのかはわからない。しかし、とにかく奴はその歌を私に歌ったのだ。私も負けじと奴の真似をして、お辞儀しつつ「ヲン、カラララララ……」とやって見せると、奴は喜んでそれに返すようにこの行為を繰り返した。こんなに仲良しになったカラスだが、その年の秋の終わりを最後に突然姿を消し、二度と私の目の前に姿を現すことはなかった。もしかしたら、あのカラスはかなりの高齢で、もともと長くなかったのかもしれない。長い「鳥生」の最後に、思い出作りの「遊び」として、人間のガキと遊んでくれたのだろうか。このように、この公園にはとてもいい関係を築けたカラスもいたが、一方でとても険悪な仲となってしまったカラスもいた。それも修復不可能なレベルで。

鳴くハシボソガラス。羽毛を逆立て、お辞儀するような動きをしながら鳴く。

(つづく)