銅版画・オバタクミ

 
 前回の暖かな季節に続き、今回は寒さのなかで聞ける鳥たちの声に耳を澄ませてみよう。
 立秋の声を聞くと風の温度が微妙に下がるのが分かる。だが鳥たちの声が変わるのは風の移ろいより半月ほど後のように思える。
 秋の初めに注意して聞く鳥は、ヒヨドリとムクドリだ。季語の代表格はモズで、与謝蕪村には「草茎を失ふ百舌鳥(もず)の高音かな」という句もある。だが街でモズが聞こえるよりはるかに早く、ヒヨドリの声がヒーヨイヨイヨとさみしく遠くを呼ぶような声に変わる。中田みづほは、「庭にゐる鵯(ひよどり)山へ返事かな」と詠んでいる。寒さに向かう季節の始まりのさみしさを一番に声に表すのが、大きな体なのにちょっと甘えん坊なヒヨドリなのではなかろうか。
 ヒヨドリたちの声が変わるころ、道にハクセキレイがチョコチョコ現れはじめる。「小鳥来る」という秋の季語が動き出すのである。ムクドリの声がシュルシュルと強くなり、群れ(コロニー)を作り出すのも秋口からである。夕方には、街路樹にスズメが集い、一大塒(ねぐら)となる。こうして街場に鳥たちの声が集まり、秋は春と並んで鳥が良く鳴く季節となる。空から来る空気は乾き、地上を覆っていた夏の圧力のようなものが交代しはじめる。

 真冬のバードリスニングは、雪原の「赤い鳥たち」が素晴らしい。山一面に積もったフカフカの新雪に曙光が降りるころ、林の中からフィッ・フィッと、ひそやかだが美しく通る口笛のような声が聞こえてくる。
 アトリの仲間のベニマシコという小鳥の声だ。名前の通り、全体に紅色をしている。声は単調だが、人間の口笛くらいで小鳥としては低めの音程のため、雪原でも良く通る。
 木の実を求めて雪原に現れる鳥は、ベニマシコのほか、ウソ、アトリ、マヒワなどがいる。彼らはカナリアと同じアトリ科で声が美しく、色は赤が基調で雪に映える。春の小鳥と違って話しかけても返事してもらえることはまずないので、彼らと会うときはコミュニケーションを取るのでなく、品の良い声を静かに「聞かせていただく」のが良いだろう。
 雪原で赤い羽色が映えるように、雪が音を吸っているなかでも彼らの声は鮮やかに聞こえる。春・夏のようにエコーを伴って山に響くのではなく、雪面にうっすらと反響する。楚々と鳴き交わすのは彼らの間の会話なのだが、雪の下でひっそりと球根を膨らませながら春を待っている植物たちと雪越しにささやき合っているかのようにも思える。囀(さえず)らない季節、鳥たちは自分を育んでくれる大地と植物の声を聞き、対話しているのかもしれない。
 真冬の鳥の音のなかで、私はシメが平たい嘴(くちばし)で木の実を割る音が好きだ。静まり返った林で、シーと細い声を時折立てながら、パチリッと小気味良い音で木の実を割る。この鳥もアトリ科で、カナリアが餌の粟粒を割るのと似ている。美味しい実が出てくるためのパチリッは、シメにとっても小気味良いに違いない。
 冬の小鳥たちが立てる小さな声や音は、眠っているかに見える大地の営みを伝えてくれる。鳥を通して春に空が聞けるとすれば、冬には大地が聞けると思う。
 街で真冬に聞ける鳥の声は少ないが、身近な声を注意深く聞いていると、半月毎に様子が変わるのが分かる。落ち葉が舞うころ一旦静かになり、冬至直前に地軸の傾きから暦より早めに日が伸びはじめると、スズメがやや賑やかになる。暮から松の内にかけて、ハシボソガラスが人恋しげに朝から鳴いたり、ハシブトガラスが群れで合図を送りあうように規則正しく鳴く。
 節分直前になると、キジバトが時間を止めそうな長閑(のどか)さでデデッポーと鳴き出す。このころには、冷たい空気の底に春の柔らかさと、地底から湧き出してくるエネルギーのような波動が感じられはじめる。寒い季節の時間経過は、鳥たちの声に正確に織り込まれているのである。
 雪原や厳寒の街で彼らのささやきに耳を澄ますとき、私は厳しい季節に小さき者たちが生きる術がちゃんと残されていることを感じ、ほっとするのである。
 東日本大震災直後ははっきりと鳥が減り、鳴き方も萎縮していた。昨今ようやく、彼らの気持ちが立ち直ってきたのか、空が賑わってきた気がする。
 俳句では、賑やかな鳥たちの声を鳥語(ちょうご)と呼ぶ。鳥語を聞き取るには私たちの言葉を控えなければならない。自然と一体となり、その営みを声で教えてくれる鳥たちの言葉を聞くことは、人間という裸の種に立ち返り、自我や想念から自由になることでもあるだろう。心静かに耳を澄ませ、いつも彼らの声が聞ける平穏な気持ちでいたいと思う。

(「考える人」2015年秋号掲載)