今年2011年は、花森安治が生まれて100年目の年です。雑誌編集の大先輩の生誕百年を記念して『考える人』では、花森の人生のもっとも大きな謎に焦点をあてて小特集を組みました。

1911年10月25日、神戸で花森安治は生まれました。この年、中国では辛亥革命が勃発、安治少年が育った日本はゆっくりと未曾有の大戦争に突入していく時代にありました。
1937(昭和12)年、東京帝国大学を卒業し化粧品会社の宣伝をやっていた花森は一兵卒として召集され、満州北部に送られて結核に罹ります。帰国後、療養して宣伝マンに戻っていた彼を、大学新聞の先輩が誘います。発足して間もない「大政翼賛会」に、こうして花森は参加したのでした。

のちに反戦の象徴たるべき『戦争中の暮しの記録』を世に出し、「日本の消費者、ことに抑圧された主婦たちの利益と権利と幸福に説得力のある支援を行った」とマグサイサイ賞を受賞する花森安治が、大政翼賛会宣伝部にいた――このことはスキャンダラスな噂として花森の周囲にたなびいている感がありました。同時代の少なくない言論人、知識人が同じく大政翼賛会に加わっていたことに、それほどの衝撃もないのに。ひとつには、花森が戦時中にどのような活動をしたのか、戦後ほとんど語らず、まったく書かなかったせいかもしれません。
これと対照的に、切実な叫びのように書きつがれた『一戔五厘の旗』の詩の数々、そして『戦争中の暮しの記録』の試み(はじめ『暮しの手帖』の特集として企画され、翌年、単行本として暮しの手帖社より刊行された)。花森にとって戦争とは何だったのか、何を思い、どう行動し、何を伝えたかったのか。その疑問を解き明かすべく、4人の方が小特集に参加してくださいました。

津野海太郎さんは、連載「花森安治伝」を一回休んで、花森が遺した従軍手帖をふくむ3冊の手帖を解読してくださいました。この手帖の存在は、伝記や展覧会でも明かされていましたが、大政翼賛会時代の手帖の内容は本邦初公開。津野さんは、「読んで私はちょっとあわてた」と、衝撃を綴っています。ものに動じない津野さんですが、そうとうぎょっとする記述があったようなのです。それはいったい……。

メディア史・歴史学者の佐藤卓己さん、広告ディレクターの馬場マコトさんには、大政翼賛会と花森の沈黙の謎をめぐって、対談していただきました。
 馬場「僕が重要だと思っているのは、日米戦争を起こすまでの輿論形成と、戦争維持キャンペーンの違いです」「いったん戦争が起こると、みんな反応するんです。……花森は頭がいいし計算にも長けていたけれど、それでも反応していった」
 佐藤「戦争が日本社会の閉塞性を打破するという論理は、本来なら戦争に反対するはずの人々を沈黙、さらには喝采に追い込んでいく……大政翼賛会の恐さがあるとすれば、この点だと思います」
など、刺激的な議論が展開されていきます。お二人の博識と資料の読み込みから導き出された、結論とは……それはぜひ、本誌でお確かめください。

歴史学者の加藤陽子さんは、『戦争中の暮しの記録』をつぶさに読んでくださいました。徹底的な空襲によって焦土と化した町、食糧をめぐる日本人同士の闘争――「きわめて悲惨なものとなった日本人の日常生活、空襲被害、集団疎開についての回想と記録を取り纏めようと、花森に決意させたものは何だったのだろうか」。敗戦から20年余りが経過した1968年に、女と子どもの〈戦場〉の記録を庶民の前に突きつけた花森、そこに託された切実ではりつめた思い。加藤さんの深い読み解きに触れて、いまいちど花森安治の著作を読み直したい思いにかられています。

花森生誕百年を機に、暮しの手帖別冊『花森安治』、酒井寛『花森安治の仕事』(朝日文庫)、馬場マコト『戦争と広告』、『花森安治の青春』(9月刊、いずれも白水社)、『花森安治 戯文集』(1は既刊、2、3と年内刊予定、ブックエンド刊)など復刊もふくめ、関連書が書店に並びます。そちらも、どうぞお楽しみに。