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随筆 小林秀雄

2016年10月3日 随筆 小林秀雄

一 若い読者からの手紙

著者: 池田雅延

 今年の夏も、仙台の河合塾で、小林秀雄のことを聞いてもらう機会に恵まれた。
 河合塾といえば、大学受験の大手である。その河合塾で、小林秀雄とは…、と訝しく思われる向きも多かろう。四十年前、五十年前とは異なり、当今の大学入試に小林秀雄が出ることはまずない。なのになぜ、河合塾で小林秀雄なのだ、というわけである。
 私自身、一昨年の夏、初めて招かれるまでは知らなかったのだが、河合塾では毎年、「わたしが選んだこの一冊」という読書案内の冊子を発行している。そこにこう記されている。―みなさんにこの冊子をお届けするのは、「大学受験」という人生の大きな関門を突破するためには、当面の受験への取り組み方や知識の習得が大切であるばかりでなく、「人生とは何か」を考える強靭な思考力や、自分のなかの計り知れない潜在能力を掘り起こしてくれるような、深くゆったりした知的経験が必要であると、私たちが信じているからです…。
 これと同じ理念に立って、毎年夏、仙台の河合塾では何人かの講師を外から招き、「知の広場」と銘打って、当面の受験勉強には必ずしも直結しない話をあえて聞かせる場を設けている。来たるべき春、晴れて大学生となった暁に、自力で人生を考える態度がただちに養えるようにとの親心である。つまり、河合塾は、単なる進学塾ではないのである。
 その「知の広場」に、いま『考える人』に「小林秀雄の時」を連載している杉本圭司さんとともに招かれ、それぞれに小林秀雄を読んできた経験を話したのだが、私は、昭和三十八年(一九六三)、高校二年になったばかりの春、ある日いきなり小林秀雄と出くわし、出会ったその場で虜となり、小林秀雄を読み通したい一心でそれまでまるで考えたことのなかった大学への進学を志し、爾来五十余年、ずっと小林秀雄を読んでいるというところから話を始めた。実際、私の大学進学の目的は、唯一、小林秀雄を読むことだったのである。
 東京に帰ってしばらくして、福島大学で法学と哲学を学んでいるというS君が手紙をくれた。仙台の聴講者には、現役の塾生だけでなく、すでに大学へ進学を果しているOB、OGたちもいた。講演会後の懇親会でそれを知った。S君本人の同意を得て、ここに引かせてもらう。手紙には大略、こう書かれていた。
 ―あの日、池田さんの話を聞いて、ある羨ましさを感じました。その羨ましさとは、池田さんが小林秀雄と同時代を過ごされ、同時代に小林秀雄の作品を読まれたことです。小林秀雄の文章が、日本の人々に戦慄をもって受け止められた時代に私も生まれたかったと思います。私が小林秀雄と初めて出会ったとき、小林秀雄はすでに現代文の便覧に記載されている歴史上の人物でした。それゆえ、小林秀雄の作品は、私にとっては「古典」です。私と小林秀雄の作品との間には時空的な隔たりがあります。小林秀雄と同時代の読者が共有していた時代の空気や常識は私にはわかりません。したがって私は、小林秀雄が意図した本当の意味に辿り着くことはできません。そのことに関して羨ましさを感じました。
 読んで私は感動した。このS君の、同時代に生まれたかったという羨望と絶望、わけても絶望は、たとえばドストエフスキーを読んで、モーツァルトを聴いて、ゴッホを見て、小林秀雄がそのつど抱えこんだ絶望であり、小林秀雄の文章は、この絶望をいかに乗り越えるかの思案と苦闘の告白だったといってよいのである。その究極が最晩年の大著「本居宣長」であったのだが、緒に就いたばかりのS君の小林秀雄愛読が、小林秀雄が抱えこんだと同じ絶望で始められている、そこに私は感動したのだ。

 同時に、彼の手紙からある示唆を得た。私は、昭和四十五年の春、新潮社に入り、翌年、小林秀雄先生の本の編集担当を命ぜられ、先生が亡くなるまでの十一年余り、その謦咳(けいがい)に接した。したがって、私は、小林秀雄と同時代に小林秀雄の作品を読むことができたという以上の僥倖に浴したのだが、おかげでここ数年、小林秀雄についての話を方々で頼まれ、本を書いてほしいという相談もいくつか受けた。だが、講演・講話の類はともかくも、本は固辞してきた。小林先生は、作家であれ思想家であれ、誰かについて知りたいと思えば原文を読め、入門書や解説書は誤解のもとになると何度も言われていた。だから私は、生涯の終りまで、多くの人に小林秀雄の原文を読んでもらうための努力は続けるが、小林秀雄を手っ取り早くわかってしまいたい人たちの便になるような本は書かない、そう思い決めていた。
 しかし今回、S君の絶望に感慨をもよおし、その絶望こそが君に小林秀雄を真に読ませてくれると返事を書こうとして、ふと小林先生のもうひとつの言葉が思い出された。昭和四十年八月、先生が六十三歳の夏、京都で行われた岡潔さんとの対話「人間の建設」で、こういうことが言われている。
 ―芭蕉という人を、もしも知っていたら、彼の俳句はどんなにおもしろいかと思うのです。弟子たちはさぞよくわかったでしょうな。いまはこれが名句だとかなんだとか言っていますが、しかし名句というものは、そこのところに、芭蕉につきあった人だけにわかっている何か微妙なものがあるのじゃないかと私は思うのです。鑑賞とか批評とかがどうも中ぶらりんなものに見えてくる、そういう世界のことですがね。
 この発言は、先生の友人が遺した句集についての話題から発展して出てきたものだが、ここで言われている、「芭蕉につきあった人だけにわかっている何か微妙なもの」は、小林先生自身の作品についても、立ち居振舞いについても言えるのである。
 その小林先生と生身で「つきあった人」たちが、小林先生の人となりや逸話を記した文章がずらりと並んだ本がある。新潮文庫の「この人を見よ」である。小林秀雄の全集は計六回出ているが、第一次全集から第三次全集までの月報に寄せられた諸氏の文章を、余さず収録したのがこの本だ。元はといえば、昭和五十三年五月から第四次全集を出したとき、別巻として私が立案し、編集したものだが、ここには先生の言う「何か微妙なもの」の気配が随所で立っている。どうやら私にも、私の感じた「何か微妙なもの」は、書いておく時が巡ってきているようなのである。S君の手紙から得た示唆とはこれである。

(第一回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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