日本から来る都市建築の研究者に、ミラノを案内することになった。
 <今のミラノを案内してくださいませんか>
 と、メールにあった。
 二つの世界大戦で、ミラノはその大半を失った。
 失って、得る。
 戦後ゼロからの再建を余儀なくされたことで、ミラノは新しいイタリアを生み出す拠点となった。この町が牽引して、イタリアを前へと連れていく。ミラノの動向を観れば、イタリアのこれからが見えてくる。研究者はそう考えたのだろう。

 各地に名産物があるのなら、ミラノの特産物はお金ではないか。海も山も湖もないこの町には、でも証券取引所がある。商機が作られ、人材が集まる。斬新なアイデア実現のために、最新の技術が考案される。情報があふれると、それを整理して伝える流れが生まれる。暮らしのテンポは上がり、人々は乗り遅れまい、と注意深く周囲に目を光らせている。ミラノの人々は訓練されている。

 新しい潮流を知るのに、新聞記者やカメラマンよりも少々老いた人たちに訊くほうが的を射ていることが多い。男性よりも、女性。孫の面倒を見終えてひと息吐(つ)いたところ、あるいはひとりで勤めあげ自由に暮らしている女性たちがいい。
 彼女たちは、早朝の散歩同好会に始まり、バールで朝食をとりながら、あるいは美容院でセットしながら新聞からフリーペーパーまでを熟読したあと、社会人向け教養講座で午前を過ごし、ランチは友人たちと情報交換、午後からはときどきボランティアに出かけたりしている。強者(つわもの)は、夜間の救急車に添乗もする。
 そういう女性たちについて、映画フェスティバルや舞台、コンサート、美術展、あるいは青空市場や政治勉強会へ私もいっしょに行く。
 時間や義理から解き放たれた女性たちは、草の根の下にまだ埋まっているような事象も見つけて掘り出してくる。
 この数年、そういう何人かに教えられて行く先は、たいてい美術館である。古くからあるものではなく、新設のプライベート美術館だ。
 ミラノの真ん中に、ドゥオーモ(大聖堂)と広場、王宮とスカラ座がある。
 スカラ座の背後に証券取引所があるので、一帯には金融機関が集まっている。音楽の殿堂スカラ座を包み込むように大手銀行が軒を並べていて、文化を支える後ろ楯たちの図録を見るようだ。
 「その銀行のひとつへ行きましょう」
 老熟女性から誘われたのは、三年ほど前だったか。
 イタリアに着いて間もなく、私はその銀行に口座を開いた。凝ったレリーフが施された正面玄関を入ると、七、八メートルはありそうな高天井の下、広々としたホールがあった。荘厳な大理石造りのこの入口ですっかり萎縮してしまい、客なのに妙に畏まり、怖気づいた気持ちになったものだった。
 建築物として面白いから銀行へ行くのだろう、とついていくと、件(くだん)の銀行は大手金融グループに吸収合併されて今はなく、連なる数軒分の建物とともにそのまま近現代美術館、<ガッレリア・ディ・イタリア>へと変わっていた。

©UNO Associates Inc.


 天井のフレスコ画やステンドグラスはもちろん、アールデコ調の模様が擦り刻まれたガラスの衝立のある窓口まで、銀行当時のままである。ガラスの衝立越しには、レジや伝票の代わりに、背後の壁に掛かるルチオ・フォンターナの絵が見えている。放射線状に設置されていた各種窓口はすっかり取り払われ、そこへ現れた悠々とした空間の真ん中に、ミラノ在住のアルナルド・ポモドーロの彫刻作品が置いてある。
 かつて銀行の頭取が使った部屋は、建物をいくつか通り抜けていった一番奥にある。床には色とりどりの大理石が織物のようにはめ込まれ、小作品が壁に掛かっている。書棚と机椅子、照明ランプを置くといっぱいになるようなこぢんまりとした部屋が思いのほか質素なのに驚いていると、
 「あそこに見えるのが、アレッサンドロ・マンゾーニの家だったのよ」
 連れてきてくれた老熟女性がそう教えてくれる。マンゾーニは、十九世紀のイタリア最大の国民作家である。頭取の机の背後に開いた小さな窓からの借景が、その部屋の一番の装飾品というわけなのだった。
 かつての銀行は、外枠だけ残して中を変えた。蒐集した美術作品のほかに、担保として収蔵していた作品もあるのかもしれない。合併吸収した銀行は、新たな金融機関として再開業はせずに、私蔵美術作品を披露してその審美眼とパトロンの心意気を見せることにしたのである。

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 昨春、ファッションブランドのプラダはその財団法人が、ミラノの中心から少し離れた地区に現代美術館建てている。廃業した工場を敷地ごと買い上げ、倉庫や車庫、地下室、工場建屋をそのままに利用して改築し、膨大な私蔵現代美術作品の常設展および、内外のトップキュレイターたちによる企画展を開催している。荒廃していた一帯に突如、金箔を貼った高い塔が出現し、異次元の光景を創っている。美術館併設のバールは、『グランド・ブダペスト・ホテル』のウェス・アンダーソン監督の監修だ。
 平日の昼下がり、「教養講座が休講なのよ」と老熟女性につれられてこのバールの屋外席に座り、訪問者の往来を眺めている。
 「展示作品もさることながら、客だわね、見るべきものは」

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