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『〆切本』(左右社)

傑作誕生の舞台裏(その2)
 
*迫りくる締切に苦しめられた90人の作家が、そのありさまを率直に綴った94篇のアンソロジー『〆切本』を前回から紹介しています――。
 
 それは、『「漫画少年」物語――編集者・加藤謙一伝』(加藤丈夫、都市出版)に出てくる1節なのですが、その文章を引く前に「漫画少年」という雑誌について、少し説明しておきましょう。
 
 この雑誌は、戦後の混乱がまだ残る1947年12月20日に、学童社という小さな出版社から創刊されました。少年向けの漫画・読み物雑誌で、ここから手塚治虫をはじめ、寺田ヒロオ、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、永田竹丸、松本零士といった戦後を代表する漫画家たちが次々と生まれ育っていきました。後の漫画ブームの母体となった伝説の雑誌です。
 
 しかしその後、他の少年雑誌の豪華別冊付録攻勢などに押しまくられ、1955年秋に、廃刊します。8年という短命の雑誌でした。その版元の学童社に、1950年、大阪から上京してきた22歳の青年が、たまたまある用事で訪ねてきます。
 
<暗い夜だった。本郷に近い坂の上に、ガタガタのしもた屋が建っていた。それが学童社だった。入口には本が山積みされ、黒くすすけた階段が右手にあり、奥は座敷を改造して編集部に使っていた。
 加藤謙一氏が現われた。ぼくは、この人が往年の「少年倶楽部(くらぶ)」の名編集長であるなどということはこれっぱかりも知らなかった。
「やあ、手塚さんか。あなたの名前は知ってました。というのは、大阪方面の読者の手紙の中にときどき『手塚』という名が出てくるのです。
 ところが、私は手塚という人は知らない。いろいろ訊くと大阪の学生だという。住所もわからないので、そのままになっていたのだが……そうですか、よく来てくれました」>(手塚治虫『ぼくはマンガ家』立東舎文庫)
 
 25年後の1975年6月30日、この加藤謙一氏の訃報を聞くと、病院に駆けつけ遺体に取りすがって号泣したという、手塚治虫さんによる初対面の場面の回想です。「いまどんな仕事をしていますか?」と問われるままに、手塚さんは鞄から、持ち合わせていた「ジャングル大帝」の粗原稿を取り出します。それを「鷹のような目」で読んだ加藤さんが、「これをうちに連載しませんか?」と即座に言います。
 
<「でも、これはこんな長編ですし……」と尻込みする手塚に、謙一は「いま『漫画少年』もユニークな新人を探していたところなのです。必要ならページも充分に割きますから長期連載のつもりで取り組んで下さい」と決めつけるように言った。(中略)
 その夜、謙一は家族たちに「素晴らしい新人に出会った。きっと手塚さんはこれからの日本の少年漫画を変える人になるよ」と嬉しそうに話した>(加藤丈夫、前掲書)
 
 連載は1950年11月号から始まり、1954年4月号まで続きます。手塚青年は、またたく間に少年漫画界の大スターとなり、雑誌の連載をいくつも抱えて、超多忙の日々を送ります。
 
<加藤氏の手紙は、いつも巻紙に達筆で懇切丁寧に書かれてあり、それがぼくにとって肉親以上の励ましのことばになるのだった。
 それ以来、学童社がなくなるまで、ぼくは上京のたびごとに、学童社がねぐらのようになってしまった。ボストンバッグを下げて東京駅からまず直行するのはここで、加藤氏の姿がそこに見えないと心が安まらなかった。親のように甘えた気分になり、いろいろわがまま放題に振舞った。なにより原稿の締め切りが守れず、発売日からたった一週間前になって、平身低頭して詫びながら、学童社の机で青くなって原稿を仕上げるのだが、とうとう発売日が遅れてしまったことなど、何度もあった>(手塚治虫、前掲書)
 
 やがて1953年に、加藤家の次男が住んでいた豊島区椎名町5丁目の木造モルタル2階建てのアパートに、手塚さんが移り住みます。すると、「漫画少年」の投稿漫画の常連たち――先に名前を挙げた若い漫画家志望者らが、次々に1人、2人と入居し始めます。“漫画家の梁山泊”“漫画家たちがマンガのような生活をしていたアパート”として後に名をはせる「トキワ荘」時代の幕開きです。
 
 ……といった調子で書いていくと、まだまだ面白い話は尽きないのですが、少し先を急ぎましょう。
 
 前回、締切となると殺気立った各社の編集者に追い回され、時として雲隠れしたという手塚さんの「編集者残酷物語」を紹介しました。文字通り、編集者が力づくで手塚さんの身柄を奪い合う熾烈な競争が繰り広げられるようになりました。そんな様子を心配したのが、加藤さんです。
 
<その頃、手塚が締め切りに追われて原稿をなぐり書きのように描いているのを見ていた謙一は、やりきれないといった表情で「手塚さん、どんなことを描いてもいいけれど、子どもだけは裏切りなさんなよ。子どもを裏切るようじゃ漫画を描くのはやめた方がいい」と言った。
 手塚は「加藤さんのこの一言はこたえた。それからのボクはどんなに忙しくても、原稿一つひとつに精一杯心を込めて描くことに決めた」と言い、さらに「この人に偶然会えたことは、ボクにとってよき父、よき指導者、よき理解者のすべてを得たようなものだった。仕事上の忠告や示唆だけではなく、人生観や哲学までボクに影響を与えてくれた」と語った>(加藤丈夫、前掲書)
 
「子どもだけは裏切りなさんなよ」と諭した加藤さんは、「漫画少年」創刊号に次のような辞を掲げた人でした。
 
  <漫画は子供の心を明るくする
  漫画は子供の心を楽しくする
  だから子供は何より漫画が好きだ
  「漫画少年」は、
  子供の心を明るく楽しくする本である>(同)
 
 この精神は、戦前の加藤氏の歩みの上にありました。氏は1896年、青森県弘前市生まれ。郷里で代用教員の職にありましたが、日本中の子どもに向けた雑誌を作りたい、という大志を抱き、1918年、22歳の時に上京します。そして3年後、講談社に入社し、ほどなく「少年倶楽部」編集長に抜擢されます。創業からまだ10年、講談社初代社長、野間清治氏の大英断でした。
 


 ここからの加藤氏の活躍は目覚ましく、就任時に6万部だった「少年倶楽部」は、11年後に氏が編集長を退く時点で70万部に達します。躍進の理由はいろいろありますが、語り継がれている逸話のひとつに、加藤編集長が読者との交流を何よりも大切にしていたことが挙げられます。編集部員は、毎朝出社すると、めいめいのデスクに配られた読者からの便りをまず読みます。読者との朝の交流、それを“朝礼”と呼びました。編集部に届くたくさんの手紙を、部員たちは手分けして読み、返事を書き、情報として共有すべきものは披露し合った、というのです。
 
 当時、「少年倶楽部」の発売日は毎月10日でした。その日の「出た! 少年倶楽部」という宣伝文句に、全国の少年たちは胸を躍らせました。
 
「地方に住む読者たちは、発行日の前日に夜汽車で運ばれてくる『少年倶楽部』を待ちきれずに駅まで出かけ、受け取りにきた本屋の店員と一緒になって荷下ろしから梱包をひらく作業を手伝った」(同)といわれます。
 
 その興奮した様子を伝える投稿があります。前回の最後で、ふと思い出したと書いたのは、実はこの投稿の文章です。少し長くなりますが、そのまま引用します。
 
<――私は奥の勉強部屋で、苦手の算術の教科書をひらいて今日学校で教わった分数の計算をやっています。はたから見ればわき目もふらず勉強しているように見えますが、実は「心ここにあらず」なのです。
 さっきから時計ばかりを気にしています。私と向き合って勉強している兄は、ついに顔をあげて「何をそんなにそわそわしているんだ。うるさいぞ。落ちつかないやつだなあ……」と言いかけて、はっと気がつき、「そうか、あした発売か――おまえ行くのか」とニヤリとして言いました。
 あした発売というのは、今晩の八時ごろ町につく汽車で「少年倶楽部」の二月号が遠い東京から運ばれてくるのです。
 時計はちょうど九時です。「行ってくんぞ」と兄にいって部屋を出ようとしたとき、となりの部屋で編み物をしていた母の「外はすごく降っているよ。明日でも『少年倶楽部』は逃げやしませんよ」という声がきこえました。しかし、私はもうマントをひっかけ一寸先も見えないほど降りかかってくる雪の中に飛び出していました。
 十五分も走って本屋さんについたら、ちょうど店員さんが縄でしばった紙包みを店の中に運び込み、バリバリとあけはじめるところでした。
 やがて中から誰の手にもふれていない新刊の「少年倶楽部」がインクの匂いとともに顔をのぞかせました。
「ほれ、第一号だ」店員さんが私に付録と一緒に一冊わたします。ずしりとした重み、それを受け取ったときのワクワクした気持ちは何ともいえません。
「つけといてね」と一声かけて、私は雪の中をかけもどります。今晩読むのは「のらくろ」と他の漫画だけ。
 あとはもったいなくて、もったいなくて――>(同)
 
 当時の人気漫画は田河水泡の「のらくろ」でした。ワクワクしながら雑誌のページを広げている、雪国のこの少年のイメージは、後に「まんが道」で描かれる藤子不二雄の2人の姿にダブります。戦後間もなく、北陸・富山の小都市で手塚治虫の『新宝島』に胸を躍らせ、「漫画少年」にせっせと投稿原稿を送っていた少年たちの顔が目に浮かびます。
 
<思えば、あの頃ほど純粋に漫画を描いたことはない。毎月、『漫画少年』を開くたびに感じる不安と期待。自分の漫画と名前が大きく、目に入った時の恍惚、そして、一番小さな活字にもなっていなかった時の落胆。
 だが、あの頃の僕らには明日があった。落胆しても、ようし今度こそ! と一層はりきる元気と可能性があったのだ>(藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』、文春文庫)
 
 締切に追われてようやく描き上げた作品を、徹夜で待ち受けていた編集者に手渡すと、「足塚茂道(藤子不二雄)」の2人はトキワ荘の周辺を散歩します。朝の住宅街を歩きながら、彼らが輝くような表情で語るのは、少年時代からの夢――面白い漫画を生み出すことへの変わらない情熱と希望です。
 
「発想の最大原動力は原稿の締め切りである」と山田風太郎さんは語っていますが、藤子不二雄の2人にとって「発想の最大原動力はかつての自分たちである」という絵柄のほうがより相応しいかもしれません。遠い東京から夜汽車で運ばれてくる雑誌を楽しみにしている読者の顔が、彼らの目にははっきり見えていたと思うのです。
 
 この項、もう1回続けます。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

写真提供・弘前大学附属図書館「加藤謙一文庫」/加藤丈夫氏
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