浄土教の広まりと末法思想

 浄土教の思想は、すでに飛鳥・奈良時代に伝来し、阿弥陀仏の造像なども行われたが、本格的な普及は、平安時代中期、「阿弥陀聖(ひじり)」と呼ばれた空也(九〇三~九七二)や『往生要集』の著者である源信(九四二~一〇一七)などの影響が大きい。
 空也は在家の念仏修行者として出発し、諸国を遊行しながら道路修理や架橋といった土木作業などの社会事業を行ったり、遺棄死体に阿弥陀仏称名の供養を行ったりしたと言われる。
 空也は後に出家受戒したが、彼以降に多く現れた、正式な受戒をしないまま主に念仏信仰を布教する在家、あるいは半僧反俗の仏教修道者を「聖」と言う。彼はこの聖の、まさに先駆者なのである。
 念仏信仰とあいまって輩出した聖の存在は、国家統制から離れて、民衆に直接布教をする宗教者の意思と、それを受け入れる民衆の時代状況があったことを示している。律令制度の形骸化や地方の騒乱(平将門・藤原純友の乱)などで、時代の変動から人心が不安定になり、それまでは主として貴族社会内にとどまっていた仏教や念仏信仰が民衆にも求められ、それに応じる活動家が現れたというわけである。
 『往生要集』で有名な源信は、法然以前では最も重要な浄土思想の唱導者である。彼の迫真の地獄描写はいま読んでも劇的だが、思想的に重要なのは、彼が観想念仏のみならず称名念仏の意義を認めていることである。
 とりわけ「臨終行儀」を重要視し、念仏信仰者の共同体における往生の要諦として、臨終時に称名念仏を勧めていることは注目に値する。この「臨終」の発見は、「個人」の死の実存的意味をテーマとするという意味で、特筆すべきであろう。
 平安貴族による摂関政治の全盛期を象徴する藤原道長も源信に深く帰依し、病苦ののち、法成寺で念仏を唱えながら逝去したと伝えられ、この時期に宮廷貴族に浸透した浄土教の強度が知られる。
 さらに平安時代後期から末期、貴族による政治体制が衰退(院政の開始)し、地方での戦乱が続いたこの時期、仏教の末法思想の流行が重なった。
 末法思想はブッダの入滅後、次第に仏教が衰微して世界が混乱に陥るという思想で、「末法」をいつ頃のことと考えるかには諸説あるが、当時の日本ではそれが一〇五二年と信じられていた。
 すると、これに符合するかのように、源平の戦乱、寺社勢力の武力行使(「強訴(ごうそ)」)、天災や災害(安元の大火、養和の飢饉、寿永の地震)などが続発し、さらに疫病もたび重なった。
 この状況下で、個人の実存不安が、それまでの宮廷貴族のみならず、広く民衆に共有されるようになり、ここに法然の浄土思想が急速に受け容れられる土壌が用意されたのである。

法然の思想的革命

 法然は出自からしてこの時代を象徴している。彼は地方豪族の子息で、九歳の時に父親を争乱によって殺害されている。
 十三歳で比叡山に上り出家、学僧として「智慧第一」を謳われるが、十八歳で黒谷に隠棲した。その事情を、『法然上人行状絵図』は、

「いづれの道よりか、このたびたしかに、生死をはなるべきといふことをあきらめむため」

と伝えている。
 この黒谷での学問的な研鑽の果て、四十三歳で突如浄土教に転向し、比叡山を下山する。

「悲しきかな、悲しきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず。この三学の外に我が心に相応する法門ありや、我が身に堪えたる修行やあると、よろずの智者に求め、諸の学者に訪いしに、教うる人もなく、示す輩もなし」

  『法然上人行状絵図』が紹介するこの言葉からは、自らの実存不安に対する鋭敏な自覚と、当時主流の仏教思想と実践方法への深い懐疑が読み取れる。けだし、法然の当時の真情も実際これに近かったであろう。
 ということはつまり、彼は、とても「ありのまま」を肯定できる境地にあるわけがなく、その心情は、「ありのまま」では苦悩するばかりの時代状況と、一致していたのである。

法然


 このようにして出発した法然の浄土思想は、最終的に前代未聞の革命性を持って姿を現した。その革命性は、私が考えるに二点である。
 一つは、「日本」に対する革命。
 『古事記』的アニミズムを底流としつつ、まさに「ありのまま」主義的形而上学たる「天台本覚思想」が形成過程にあった思想状況において、彼はいきなりキリスト教のごとき「一神教」のパラダイムを導入したのである。これほど妥協なき超越性を主張する思想は、彼以前の日本には一つもなかった。
 もう一つは、「浄土教」に対する革命。
 仏教思想の骨格は、凡夫が修行して悟り、成仏して涅槃に入るというものであり、これが公式である。
 従来の浄土教思想は、いずれもこの公式を認め、特に煩悩多く修行能力の低い衆生を、如来が慈悲によって成仏に導く補助手段として、浄土の教えと念仏実践を考えていた。つまり、あくまでも副次的教えだったのである。
 ところが、法然はこれが仏教における最高絶対のアイデアであり、如来の真意なのだと主張したのである。これは当時、法然以外の全仏教者にとって受け容れ難い思想だったであろう。
 後の数々の「法難」と呼ばれる法然とその教団への弾圧も、要因は結局、この二つの革命思想の妥協なき主張によるものである。(つづく)

引用文献:『法然全集』(春秋社)