梅棹忠夫とは、じつにさまざまな顔をもち、領域を超えて行動した人でした。登山家、探検家、生物学者、民族学者であり、そこから文明の比較研究や情報産業論へと独創的な研究が広がっていきました。絵を描き、エスペラント語やローマ字運動に力を注ぎ、切手収集に夢中になりました。65歳にして視力を失ったこともまた、梅棹忠夫の新たな研究生活のきっかけになりました。
 その起伏の多い人生の軌跡に居合わせた方々に、それぞれ忘れがたい思い出や、知られざる相貌を明かしていただきました。

7つのエッセイ【忘れがたいひと】

 鶴見俊輔「梅棹忠夫頌」。鶴見さんは、戦後のごくはやい時期に梅棹と出会い、ともに刺激をうけながら『思想の科学』を支えた旧友です。当時のことをよく伝える『梅棹忠夫著作集』[第1回配本1989年10月刊行]の月報より、再録しました。
 谷泰「記録の技法をめぐって」。京大山岳部にいた谷さんは、1955年に「カラコラム・ヒンズークシ」学術探検隊が組織された折に、梅棹から探検講座の手ほどきを受けます。緻密で大胆なフィールド・ノートの取り方、愉快で寛容な人柄を今もなつかしく回想しています。
 河合雅雄「おしかけ弟子という暴挙」は、なんと京大の動物学科にいた河合さんが、当時大阪市立大学助教授だった梅棹を卒論の指導教官に選んだというてんまつです。梅棹が与えたテーマ「道徳の起源」があまりにとっかかりがなく、断ってしまったことを、河合さんはちょっぴり残念がっていました。
 そのほか、京大の人文科学研究所で出会い、ヨーロッパ研究の端緒を開いた樺山紘一さん、助手として私的な「梅棹サロン」にも通い親交篤かった石毛直道さん、モンゴル研究の直系の弟子として最後期に出会った小長谷有紀さん、河出書房新社で『梅棹著作集』を担当した小池信雄さん――それぞれとっておきの挿話が紹介されています。

3つのエッセイ【知られざる姿】

 小山修三「日本文明は三内丸山にはじまる」。1995年10月、梅棹を口説いて三内丸山遺跡に同行した小山さんは、遺跡を一巡したあとに梅棹が語ったイメージの鮮やかさ、都市神殿論に舌を巻いたと言います。「失明したと聞いたが、ほんとうは見えているのじゃないか」と真顔で言った人もいたほどだと。失明後は著作集の編纂に専念したと思われがちですが、梅棹はその後も研究への情熱をたぎらせていたことを伝える秘話です。
 そのほか、梅棹の『文明の生態史観』に『文明の海洋史観』をぶつけて2度に及ぶ対談をした川勝平太さん、山口昌男と梅棹の座談に立会った、当時編集者だった坪内祐三さんが、梅棹忠夫との邂逅を明かしてくださいました。

 多くの証言でつむぎだされる、梅棹忠夫という人の魅力、桁外れのおもしろさ。どうぞ本誌を手にとって、じっくりお楽しみください。